よみもの・連載

軍都と色街

第八章 津田沼 中国 ビルマ

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 鉄道第五連隊は、ビルマ北部に向かい、終戦までそこで駐留し、地獄のビルマと呼ばれた戦線で輸送任務に携わった。
 泰緬鉄道の工事を担った鉄道第五連隊の木下幹夫さんは一九四四(昭和十九)年、ビルマ北部のモニン駅で駅長として、軍需物資の管理を任されていた。
『ミャンマーからの声に導かれ』によれば、インパール作戦において、日本軍の集結地点のひとつだったモニンには、作戦が近づくにつれ連日三百人ほどの兵士や馬や大砲、糧秣などが続々と鉄道の夜間輸送によって駅に届いた。到着した兵士たちは順次前線に向かった。その後インパール作戦が失敗すると、傷病兵は次々に前線からモニン駅目ざして退却してきた。飯ごうと水筒を下げていたが、銃や銃剣は持っていなかった。駅に行けば列車に乗せてもらえるという思いで、やってきたのではないかと木下さんは回想する。
 負傷した兵士の中には「水を飲ませてほしい」と懇願する者もいた。水を飲ませたら死ぬのではと思ったが、沸かして与えると、多くが二〜三日後に亡くなった。遺体は現地人に埋葬させたが、一日数十体に上る時もあり、埋葬が追い付かないこともあった。遺骨の代わりに小指を切り取って供養した。
 駅まで辿り着けず、力尽きる兵士もいて、生き残った兵は「途中で(仲間を)放って帰ってきた」と話し、駅へ続く退路には数多くの白骨が横たわっていたと兵士たちから聞いた。
 一九四四(昭和十九)年六月頃から、敵の空爆は激しさを増し、防空壕に駆け込んではやりすごすといった状況だった。爆弾は地上に落ちると、幅約十メートルの穴が開くほどの威力があった。爆弾には出刃包丁の刃のようなものが入っていて、それが爆発とともに飛び散り、人馬殺傷弾とも呼ばれた。その爆弾に倒れたのは兵士ばかりではなかった、現地の子どもたちにも容赦なく襲いかかった。逃げ遅れた子どもの首や腕、内臓が爆弾の破片で切られる光景には心が痛み今も忘れられないという。
 一方、祖父は一九四二(昭和十七)年十一月二十一日にビルマを離れ、シンガポールを経由して広島県の宇品港に帰還した。そして十二月二十五日に召集解除され除隊となった。中国戦線から四年以上戦地にいたことから、日本に帰ることができたのだった。
 祖父はビルマを離れ、再召集される一九四四(昭和十九)年四月まで日本にいた。その間に私の父が生まれた。もし、祖父の軍歴が短い状態でビルマに従軍していたら、ビルマに残ることになっていただろう。そしてビルマの土となっていたら、この原稿を書いている私もいない。
 鉄道第五連隊は物資の輸送を担っていたこともあり、前回の連載でも触れた一九四四年七月に玉砕したミートキーナで戦った者もいた。
 平時であれば、人生の分岐点ははっきりと見えないものなのかもしれないが、戦時にはくっきりと明暗が浮かび上がる。そんな場所がビルマだった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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