よみもの・連載

軍都と色街

第八章 津田沼 中国 ビルマ

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 イポーは、クアラルンプールに次ぐ規模の街であり、マレー作戦の重要拠点でもあった。当然ながら、イポーを守るイギリス軍側も日本軍の進撃を少しでも遅らせようと、鉄橋をそのままにはしておかなかった。鉄橋を爆破し、ペラク川の対岸に陣地を構築し日本軍を待ち構えていた。十二月二十六日に日本軍はペラク川の渡河を強行し、イギリス軍を退却させた。その後、ペラク川橋梁の復旧作業を任されたのが祖父がいた鉄道第五連隊だった。橋梁復旧作業は開戦後初の大仕事であり昼夜兼行で工事は進められ、一九四二年の元旦は橋梁の上で迎えたという。『鉄道兵回想記』によれば、仮眠時間は平均八十分、用便以外は橋の上で済ますという不眠不休の工事の甲斐あって一月四日に工事は完了した。無茶苦茶な作業にもかかわらず、死者は出なかった。居眠りした兵士がひとり川に転落したが、幸いにも深みに落ちたため命を落とすことはなかったという。
 橋梁復旧後、日本軍はマレーシア北部のブキッムルタジャムからペラク川左岸の街エンゴール間に鉄道を走らせ、一日三百トンの軍需物資を輸送した。運ばれたのはシンガポール攻略に使われた弾薬だったという。
 シンガポールは一九四二(昭和十七)年二月十五日に陥落した。鉄道第五連隊の主力部隊はその時シンガポールに集結したのだった。
 日本軍は日中戦争から太平洋戦争にかけて、占領地に慰安所を作ったが、昭南島と呼ばれたシンガポールにも慰安所は存在した。
 独立自動車第四十二大隊第一中隊の一九四二年八月二十四日の陣中日誌には慰安婦や慰安所の利用に関して注意を促す軍会報を写したものが記されていた。

“一、近時軍人軍属ニシテ軍用車又ハ人力車等ニ地方ノ婦女子ヲ同乗セシムルモノアリ殊(こと)ニ慰安婦等ヲ同乗セシムル者ヲ散見スルハ頗(すこぶ)ル遺憾トスル処ニシテ自今厳ニ戒慎(かいしん)セラレ度”

 慰安所について記された軍会報は三号まであって、二号には慰安所でビール瓶やコップを割る狼藉を働く兵士がいて、今後そうした行為を働いた者は経営者に弁償することなどと書かれている。三号では、将校慰安所真砂が従業員の監督不行届きにより営業停止になったと記されていた。
 風紀の乱れを注意する会報を読む限り、日本軍の兵士たちにとって、慰安所や慰安婦たちは身近な存在だったことがわかる。別の陣中日誌には、私娼窟への立ち入りを禁止し、慰安所を利用するように命じる会報も載せられていた。
 明日をも知れぬ戦地に送られた兵士たちにとって、女性と酒は欠かせないものだった。祖父の部隊は一九四二年の三月にシンガポールに集結している。占領から一ヶ月ほどが過ぎようとした頃だが、『シンガポール占領秘録』(原書房)によれば日本軍は同年の二月には慰安所を開設していたという。占領から一ヶ月も経っていないにもかかわらず、朝鮮人の親方と台湾人女性の経営する慰安所が、中心部のケアンヒル街にできたという。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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