よみもの・連載

軍都と色街

第八章 津田沼 中国 ビルマ

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 木更津の慰安所は六軒町と呼ばれる場所にあった。現在ではその地名は残っていないが、JR木更津駅の北東にあたる永井作にあったという。『木更津基地──人肉の市』(洋々社)によれば、木更津海軍航空隊と第二海軍航空廠に勤務する兵士や工員のためのものだった。その当時、六軒の慰安所があったことから六軒町と呼ばれたという。まわりには民家はなく、憲兵隊が一般人の出入りを禁じていて、周囲からは隔離されていた。
 働いていたのは、五十人ほどの女性たちで、地元の女性や朝鮮半島出身の女性も少なくなかった。

 戦争末期には慰安所も存在していた房総半島だが、鉄道連隊が置かれた千葉や津田沼、歩兵連隊が置かれた佐倉などでは、古くからの遊廓が利用された。
 JR津田沼駅周辺はかつて習志野原と呼ばれ、演習場となっていた。祖父が残した写真にも演習の様子が写されていた。鉄道第二連隊が津田沼に置かれたのは、一九〇八(明治四十一)年のことだった。
 そして気になるのは、連隊の将兵が通った色街である。津田沼から一番近い場所にあった色街は船橋だった。その歴史は江戸時代に遡る。祖父が連隊に入営した頃には海神新地と呼ばれた。昭和になって、船橋に散在していた娼家を集めて成立したのが海神新地だった。一九二八(昭和三)年のことだった。
 そもそも江戸時代の船橋に色街ができたのは、江戸から成田山へと通ずる街道が通っていて、船橋には参詣する客を目当てにした多くの旅籠があったからだ。天下泰平の江戸時代は、伊勢参りをはじめ、庶民の間に寺社仏閣へ詣でることが流行した。江戸から数日の距離にあった成田詣も手軽に旅ができるとあって流行したのだった。
 江戸から船橋を通った街道の終点である成田山新勝寺。その歴史は平安時代に遡る由緒ある寺である。平安時代中期に平将門の乱が起きると、朝廷は将門調伏の祈祷を大寺社に命じた。その一環として、空海作の不動明王を奉じて、東国へ下るよう命を受けたのが、寛朝僧正だった。寛朝は下総(しもうさ)国に入り調伏を行うと、間もなく将門は戦死した。その後、調伏を行った場所に建立されたのが成田山新勝寺だった。
 源頼朝など数多の武人から崇拝された成田山は、戦国時代には戦乱によって寂れたが、江戸時代になり世の中が落ち着いて、庶民の間で地方の寺社仏閣への旅が盛んになるとともに、多くの参拝者が訪れるようになったのだった。
 江戸時代の寺社仏閣への参拝は、寺社周辺や街道筋にあった飯盛り旅籠などで遊ぶことが、言ってみれば大きな目的だった。男たちは寺社への参拝を口実にして遊んだのだった。江戸から伊勢を目指した者が、品川宿の飯盛り旅籠で遊び、所持金を使い果たし、江戸から出ることができなかったという笑い話もあるほどだった。
 成田山新勝寺の周辺にも色街が存在していたが、船橋は成田街道における最大の宿場として発展した。寛政年間から明治にかけて、二十軒以上の旅籠があって、旅籠は飯盛り女を置いていた。
 船橋宿の飯盛り女たちは、「八兵衛」と呼ばれていた。成田街道を旅した十返舎一九も八兵衛について記した文章を残している。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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