よみもの・連載

軍都と色街

第八章 津田沼 中国 ビルマ

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 この手記を読む限り、日本兵と捕虜の間に大きな軋轢(あつれき)があったことは窺えず、良好な関係が築かれていたようにも見える。一方で、木下の証言にはビルマ人労働者と日本軍との関係に関する記述はない。
 一年三ヶ月にわたる鉄道工事で最も過酷な労働を強いられ、一番多くの犠牲者を出したのは、日本軍でも、映画の主人公だった連合国軍の捕虜でもない。労務者と呼ばれたビルマ人の労働者たちだった。
『死の鉄路』(毎日新聞社)というビルマ人の労働者リンヨン・ティッルウィンさんが書き残した手記がある。
 労務者は汗の兵隊と呼ばれ、給料は日本軍が発行していた軍票で支払われた。自ら志願した者もいれば、強制的に連れて来られた者もいた。
 木下さんの証言によれば捕虜には休日が与えられていたが、労務者たちは一年三ヶ月の間、コレラが蔓延した時と日本軍が作った傀儡(かいらい)政権の国家代表を務めたバー・モウが鉄道を視察した日だけしか休みがなかったという。労務者たちは、同じ現場で働きながら、捕虜との交流を一切禁止され、それを破った者は、竹で作られた台に縛られた。捕虜たちの様子に関してもこのように記されている。

“捕虜たちはボロボロの軍服、穴だらけの靴という格好で、顎ひげ、頰ひげはボウボウ、腹部は突き出ていてもアバラ骨が見え、足がやせ細ってしまって膝が張り出して見えた。”

 捕虜の境遇を見る限り、日本軍との親密な交流があったとは窺えない。そして、労務者たちは、雨が降ろうとおかまいなしに労働に駆り出され、奴隷さながらに扱われていた。

“サボッているなと思える労務者を見つけると遠くから棍棒を投げつける。時には怒鳴りながら駆けて行って労務者の背中を根付きの竹でバンバン叩いたり足で蹴ったりした。”

 食事は、生かさず殺さずといった分量で、常に労務者たちは腹を空かせていたという。味付けもミャンマー人が好んだ香辛料や魚醤は、料理を検分した日本人の将校が異様な臭いがするからと言って禁止されたのだった。
 工事がタイの国境に向けてジャングルの奥深くへと進むにつれて、粗食のうえに重労働を強いられた労務者たちは次々と命を落としていった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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