よみもの・連載

軍都と色街

第八章 津田沼 中国 ビルマ

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 橋の欄干からその川を見下ろしていたら、おそらく祖父も同じようにこの流れを眺めていたにちがいないと思った。祖父は明日をも知れぬ戦場に身を置きながら、遠く故郷を思っていたことだろう。私は、好きな仕事をしながら、六十年以上の時を経て、同じ場所に立っている。その時、祖父はまだ私の心の中で生きているのだと感じたのだった。

 太平洋戦争において、戦争の大動脈的な役割を果たした鉄道連隊は第一連隊と第二連隊を母体として編制された。祖父が最初に入営した第二連隊はJR津田沼駅近くに置かれていた。その場所は現在は千葉工業大学となっている。
 祖父のいた鉄道連隊が置かれていた千葉は、本土決戦がもし行われていたならば、最前線となる場所だったこともあり今も戦争の遺跡が多く残されている。さらに千葉には、兵士たちを慰安する色街も存在していた。
 千葉県南房総にある館山湾、夏真っ盛りということもあり、ビーチでは色とりどりの水着を着た子どもたちが賑やかな歓声を上げている。そうした夏の風物詩ともいえる光景をいたる所で目にする。しかし、今から七十六年前の夏、極彩色の砂浜は、明日をも知れぬ若者たちがいた“戦場”でもあった。私は当時の記憶を辿るために、館山湾を訪ねていた。
 太平洋戦争末期の一九四五(昭和二十)年夏、既に硫黄島、沖縄は米軍の手に落ち、次の目標は日本本土への上陸だった。対する日本軍は首都東京を防衛するために相模湾に面する湘南や、東京湾に面する館山湾周辺などに陣地の構築を急いでいた。それと同時に、捨て身の特攻作戦も計画されていた。一九四四(昭和十九)年十月、フィリピンのレイテ沖海戦からはじまった日本軍の特攻作戦であったが、当初は無防備だった米軍を恐怖に陥れ、多大な戦果をあげた。ただ、作戦を重ねるにつれて、米軍側も迎撃機や対空砲火などで重厚な防御を施すようになり、米艦隊に到達する前に落とされる特攻機が続出し、当初のような戦果をあげられなくなっていった。
 日本軍は飛行機による特攻ばかりではなく、それまでにも、様々な特攻によって不利な戦況の活路を見いだそうとしていた。いくつかの兵器をあげると、魚雷を操縦し敵艦に体当たりするいわゆる人間魚雷回天、モーターボートに爆弾を積んだ震洋や陸軍のマルレ、潜水艇の海龍、さらには海中に潜った兵士が、棒のついた機雷で米軍の上陸用舟艇の船底を突いて爆破させる伏龍などがあった。そうした兵器は本土決戦で投入される予定だった。伏龍を除く、震洋やマルレ、回天などは既に実戦に投入されており、相手の警戒態勢が手薄な初陣では駆逐艦撃沈などの戦果をあげたが、本命である航空母艦は一隻も沈めることができなかった。その後、米軍がそれらの兵器に対しても厳重な警戒態勢を敷くようになると、軍部が思うような戦果をあげることは困難になっていった。それでも、本土決戦では特攻兵器は日本の沿岸に配備され、ここ館山でも米軍を待ち構えていたのである。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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