よみもの・連載

軍都と色街

第八章 津田沼 中国 ビルマ

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 そして、マレー半島に新天地を求めたのは華僑ばかりではなく、そこには日本人娼婦からゆきさんの姿も少なくなかった。からゆきさんたちもやはり、長崎県や熊本県、広島県の山間部や貧しい漁村から女衒(ぜげん)たちの手を介して、海を渡り、マレー半島へと送られてきていたのだった。太平洋戦争開戦前、マレーシアで植民地経営をしていたイギリスにとって、ゴム林のプランテーションや錫鉱山などで働く華僑や南インドから渡ってきた労働者を慰める存在としてからゆきさんは必要な存在だった。
 前回、北九州をこの連載で取り上げた際に、『花と龍』の作者である火野葦平について触れた。彼の母親も広島県の山間部の出身で、港湾労働者として働いていた兄を頼って門司に出てきていたが、マレー半島やインドネシアなどに渡った広島出身のからゆきさんも少なくなかった。
 マレー半島のからゆきさんの痕跡を辿って旅をしたのは、今から八年ほど前のことだった。クアラルンプール、ペナン、イポーといった都市には、日本人墓地があって、どの土地の墓地にもからゆきさんが眠る墓があった。
 クアラルンプールの日本人墓地は、小高い丘の上にあり、周囲には柵がめぐらされていた。マレーシア人の管理人がいて、手を合わせたい旨を伝えると、すんなりと中に入れてくれた。
 芝生に覆われ椰子の木や濃い緑色の葉が印象的な南国特有の常緑樹が植えられた墓地は、日本の墓地とは違って、どこか開放的な空気が流れていた。入り口周辺には戒名や故人の名が刻まれた立派な墓石が目立つが、奥に向かって歩いていくと、戒名も名もなく、レンガをひと回り大きくしたような墓石だけがいくつも並んでいた。
 それらの墓は、日本人の鉱山労働者やからゆきさんといった名も無き人々の墓だ。墓石は小さいが、墓地における埋葬者の割合は一番多いのではないだろうか。
 この墓地を訪ねた時、カンボジアに行った時と同じように、祖父がこの土地で戦っていたことなど知らなかった。それに気づかず同じ空気を吸っていた。
 からゆきさんがマレー半島に多くいたのは、祖父が生まれた一九〇〇年代初頭のことだ。日露戦争の勝利により、一等国という意識を持った日本は彼女たちを日本の恥として、シンガポールやクアラルンプールといった主要都市から追い出した。帰る故郷などなかった彼女たちは、マレー半島の田舎町やインドネシアへと生きるために流れていった。一九四一年十二月にこの地に足を踏み入れた祖父はそのことを知っていたのだろうか。

 話をイポーに戻そう。ペラク川はイポーを守るうえでの外堀のような役割を持っていた。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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