よみもの・連載

軍都と色街

第八章 津田沼 中国 ビルマ

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 南房総市下滝田、桜花を発射させるカタパルトがあった場所に足を運んでみた。夕暮れ時、山陰になる畑は既に日が暮れかかり、カタパルトの跡は勢いのある夏の雑草に覆われていた。傍らの畑では農婦が、畑仕事に勤(いそ)しんでいた。この場所は、米軍の艦隊が現れる東京湾に面した山の背後にあたり、艦砲射撃から桜花を守るのに好都合だったのだろう。やはり、のどかな田園風景と七十五年前の戦争がにわかには結びつかない。この場所にも死を覚悟した若者たちがいたはずである。その痕跡はどこにもなく、ところどころ穴が開いたコンクリート製のカタパルトの跡だけが、戦争の記憶を留めているだけである。
 桜花は米軍からバカ爆弾と呼ばれていたという。特攻専用に開発された兵器故に、愚かだと感じたのだろうか。ただ一方で、バカ呼ばわりされた爆弾で、祖国を思いながら死んでいった若者もいた。

 特攻兵器ばかりではなく、房総半島の木更津には、日本海軍向けの慰安所も作られた。日本軍の慰安所が最初にできたのは、一九三二(昭和七)年の上海といわれている。
 上海での慰安所の開設は日本軍兵士による強姦の防止とともに、一九一八(大正七)年から一九二二(大正十一)年まで行ったシベリア出兵の際、現地の売春宿などに兵士が通ったことにより性病が蔓延し、作戦行動に支障が出たことから、性病を予防し戦力を維持する意味合いがあった。
 一九三七(昭和十二)年に日中戦争が本格化すると、慰安所の数は急激に増えていった。軍の許可を得て営業する民間業者の数も多かった。日本風俗史を丹念に記録した小沢昭一は、『雑談にっぽん色里誌』(筑摩書房)の中で、日中戦争当時南京で最初に慰安所を開設した日本人にインタビューをするという貴重な記録を残している。
 それによれば、須川という慰安所経営者は神戸の福原遊廓の娼妓や私娼たちを集めて、南京城外の下関(かかん)で慰安所を開設した。彼の慰安所ができてしばらくすると、日本人経営者だけではなく、朝鮮人経営者の店もできた。日本軍が南京から武漢三鎮に向けて進撃すると、明日をも知れぬ前線の兵士の方が金払いがいいということで、南京の慰安所を閉めて、前線へと移動する。慰安婦を連れて移動する際は、軍とともに列車を利用した。彼が使っていた慰安婦は日本人だけで、彼女たちの取り分は料金である軍票一円のうちの四割。平均して二十人の兵士たちを相手にしたが、他の慰安所では八十人の兵士を相手にした慰安婦もいたという。一日二十人の兵士を相手にすれば、日に八円ほどの稼ぎになる。当時の二等兵の初任給が十五円ほどであり慰安婦として働いていた日本人女性が、一年で日本にいた時に作った借金を返済し、貯金もできたというから、慰安婦の仕事は稼げる仕事でもあった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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