よみもの・連載

軍都と色街

第八章 津田沼 中国 ビルマ

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 国共内戦には、残留日本兵だけではなく、満蒙開拓団の在留邦人など、双方で六千人近い日本人が参加したという。中には自分の意思ではなく、無理やり参加させられた者も少なくなかった。その代表的な存在は、映画『蟻の兵隊』で知られる山西省に駐屯していた日本兵たちだろう。
 終戦後、共産党勢力の前に劣勢となった山西省を治めていた国民党軍の閻錫山(えんしゃくざん)は、同地に駐屯していた支那派遣軍第一軍の将兵二千六百人を配下に加え、三年八ヶ月にわたって戦闘に従事させた。それにより、五百五十名が亡くなったのだった。兵士たちが残留させられたのは、第一軍軍司令官として山西省にいた澄田らい四郎中将がA級戦犯として裁かれることを恐れ、閻錫山との間に密約を交わしたことにあったという。
 人の運命は本当に紙一重で、もしかしたら、祖父が大陸に残って命を落としていたかもしれない。

 生前、祖父から聞いた戦争の話で、記憶にしっかりと残っていたのは徐州でのことだった。祖父によれば、中国の人から何度も食事にも招待されたこともあり、苦しい戦争の日々にあって、楽しい時間を過ごしたようなことを言っていた。
 幼少期から年を重ね、高校時代に学校で教えられたのは、日本軍が中国大陸で行った蛮行の数々だった。高校の男性教師が授業で話したのは、日本軍はコンドームを持って突撃して、戦闘が終わると、占領地で手当たり次第に女性をレイプし、成人の男性はゲリラとみなして、銃剣で突き刺したといったことだった。教師の年齢は四十代で、実際に戦争を経験した年代ではなかったが、さも自分が見てきたような口ぶりだった。
 そんな話は初めて聞いたが、とにかく蛮行を重ねる日本兵と祖父の姿が重なって見えてしまい、祖父が楽しかったという徐州の話が、霞(かす)んでしまったのだった。
 高校の教師が言うように、そうした行いをした日本兵がいたかもしれないが、『鉄道兵 回想記』を読んでみると、一方で土地の人々から食事に招かれるような兵士もいたのだった。
 祖父にとって思い出の地である徐州を訪ねたのは、二〇〇七(平成十九)年のことだった。当時、徐州のある山東省に隣接する河南省にエイズ患者で溢れるエイズ村というものが存在した。そこを取材で訪ねたのだが、取材中に中国の公安警察に拘束されてしまい、河南省を出るように言われた。その時、地図を眺めていたら、目に入ってきたのが徐州だった。
 そこで、祖父の話に出てきた徐州はどんなところなのかと思い、向かったのだった。
 河南省の商丘(しょうきゅう)からバスに乗って徐州に着き、ホテルに荷物を置いて、街の中をあてもなく歩いた。そこで目についたのは、川幅が三十メートルぐらいの何ということもない一本の川だった。看板には古黄河と書いてあった。その説明によれば古黄河とは黄河が幾度も流れを変え、大昔は徐州のあたりを流れていた名残りだという。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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