よみもの・連載

軍都と色街

第八章 津田沼 中国 ビルマ

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 シンガポールの慰安所で働いていたのは、朝鮮人やマレーシア人だけではなく、インドネシア人の女性もいた。
 マレー半島のからゆきさんを訪ねる取材で、私はシンガポールにも足を運んでいた。シンガポールは多くのからゆきさんがいたことで知られていたのだった。
 一八七七(明治十)年、日本では西南戦争が起こった年には、マレー街に二軒の娼家があったという。実際にその場所を訪ねてみると、娼家があったマレー街という地名は今も残っていた。当時の建物を利用した一大ショッピングモールとなっていて、若者たちの姿で賑わっていた。
 マレー街の一角には、熊本県を本拠としてアジア各地に展開している味千ラーメンがあった。からゆきさんを数多く生んだ天草は熊本県である。味千ラーメンの他にも、日本食を出す食堂やユニクロの看板が出ていたりして、からゆきさんの時代から現代まで、マレー街には濃厚な日本の匂いが漂っていた。
 シンガポールにもクアラルンプールと同じようにからゆきさんたちが眠る日本人墓地がある。
 娼館を経営していた二木多賀治郎らが、当時、日本人を埋葬するための墓地がなく、人が死ぬと死牛馬の捨て場に葬られるなど敬意を払われない埋葬のされ方に心を痛め、一八八八(明治二十一)年に自身が郊外に所有していたゴム園の一部を造成し日本人墓地としたのだった。
 墓地の中に足を踏み入れると、様々な形の墓石が並んでいた。クアラルンプールと同じように漬物石ほどの大きさの名も刻まれていない墓や、さらに細くて小さいまな板のような墓石に名前だけが刻まれたものもある。それらの墓はこの地で亡くなったからゆきさんたちの墓だった。墓地の奥へ入って行くと、墓地ができた当初に埋葬されたと思われる名前と享年が記された墓石があった。頂点が四角錐になっていて、明治時代の墓にもかかわらず保存状態が良かった。墓石の正面には名前が刻んであり、左側面にはシンガポールマレー街 明治二十三年三月七日享年二十三歳とあり、右の側面に目をやると、熊本県天草郡高浜村と彼女の生地が刻まれていた。
 熊本県の天草と並んで、多くのからゆきさんを生んだ土地として知られているのが、長崎県島原市である。この連載の取材でも足を運んだ場所で、島原市の弁天山太師堂という寺がある。その寺の住職だった広田言証は一九〇六(明治三十九)年から二年半をかけて、インドの仏跡巡りと東南アジア各地にいたからゆきさんを訪ね施餓鬼(せがき)を行った。彼はシンガポールにも足を運んでいて、日本人墓地でからゆきさんを集めて施餓鬼を行った。寺にはその時の様子を写した写真が残されていた。
 当時、醜業婦と呼ばれ同胞の日本人からも蔑まれていたからゆきさんたちは、広田言証の行いに心を揺さぶられたのだろう、寺には東南アジア各地から寄進された玉垣があった。中には、シンガポールからのものもあり、そこには日本人墓地を作った二木多賀治郎の名前もあった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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