よみもの・連載

軍都と色街

第八章 津田沼 中国 ビルマ

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 コレラが猛威を奮い、体力が低下していたこともあり、一度や二度の下痢で、すぐに命を落とした。小さな傷口に石灰を含んだ水が入ることで感染する熱帯潰瘍にかかると、傷口がすぐに広がり、蛆虫(うじむし)が湧いた。薬はないため、やはり命を落としたという。ひとつの建物に二百人から三百人が暮らし、衛生状態も悪いことから、天然痘も流行した。労務者たちは、そうした病にかかっても手当てはされなかった。住居とは別に病人を収容する病棟はあったのだが、病棟とは名ばかりで、ただ寝かされているだけで、死を待つだけの施設だった。
 コレラや天然痘の患者に関しては、病棟に送ることも日本軍はしなかった。流行の拡大を防ぐため、キャンプから追い出し、家に帰らせたのだった。労務者たちは死と引き換えに自由を得られるような状況だった。
 労務者たちにとっては、本のタイトルどおり死の鉄路であった。一方で使役する側の日本軍は、信じがたいことをしていた。
 それは、工事に関わる日本軍向けに慰安所を開設していたということだった。

“その日の朝十時頃、十人の日本人女性が大型自動車でキャンプに到着した。彼女たちは寝具類や衣類を入れた鞄を持っていた。ワァワァ、キャアキャアいいながら自動車からバラバラと降りてきた様子は品が無かった。”

 労務者たちは日本人女性が暮らす家に近づくことは禁止されていたが、彼女たちが全裸になって水浴びをするところをこっそり覗いたという。
 ビルマ人によって書かれた『死の鉄路』は、何とも気を重くさせる作品だ。著者の リンヨン・ティッルウィンさんは、工事現場からうまく脱走し、日本軍から逃れることができた。

 私の祖父も間違いなく、ビルマ人たちを監督する立場だった。温厚だった祖父からはまったく想像もできないが、暴力を振るったのかもしれない。それが後年、うなされていたことの原因のひとつだったのかもしれない。
 日本軍は太平洋戦争をアジア解放のための戦いと定義した。当時の言葉でいえば、大東亜共栄圏を築こうとした。百年以上に渡ってヨーロッパの植民地にされ、搾取され続けてきたアジア人にとって、日本軍の存在は一瞬ではあれ、希望の光となったのは紛れもない事実である。泰緬鉄道の労務者の中には、日本のために働こうという労務者もいたという。ただ、泰緬鉄道の工事における日本軍の労務者の扱いは、その理想とはかけ離れ、欧米諸国が植民地の人々になしてきたことよりもひどかった。

 現在泰緬鉄道はタイ側を除いて、廃線となっている。ビルマ側から泰緬鉄道を建設した鉄道第五連隊は、泰緬鉄道に関わる前後、ラングーンからマンダレーを経て大戦末期に日本軍が玉砕したことで知られているミートキーナ間の線路を整備した。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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