よみもの・連載

軍都と色街

第十章 北関東

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 実態の伴わなかった大東亜共栄圏、そして大義なき東京オリンピック、どちらも題目ばかりが先走って、暴走した政府のツケを払わされるのは国民である。いつまで、こんなことを繰り返しているのだろうか。

 出だしから少々愚痴っぽくなってしまった。日々、家に籠っていると、気が滅入ってくるので、取材に出ることにした。この日、都内で編集者の田島さんと合流し、水戸へと向かった。
 今回の取材の以前に水戸の色街を歩いたことがあった。その場所は奈良屋町(現・宮町)で、私娼窟として知られていた。奈良屋町は、徳川家康を祀(まつ)った水戸東照宮のすぐ裏手にある。
 古来から人の集まる土地に色街あり。徳川家の開いた江戸では、公許の吉原以外にも、今でいう裏風俗地帯ともいうべき岡場所が全盛時には百ヶ所以上あった。岡場所として有名なのは、深川、根津、芝など、名だたる寺社仏閣が存在する土地だった。
 寺社仏閣の周辺に色街が根を張ることができたのは、幕府の三奉行、町奉行、寺社奉行、勘定奉行のうち寺社奉行が強大な権限を持っていたことにあった。江戸市中の寺社から幕府に入ってくる寺銭は幕府の財政を支えた。色街が寺社仏閣の周りに存在すれば、それだけ男たちを呼ぶことができたのだ。
 江戸時代の水戸では、城から近い場所に武士向けの大工町、城から離れた竹隈町に町人向けの花柳街が存在したという。明治に入ると、さらに歩兵第二連隊の練兵所ができた谷中(現・河和田町)に花柳街ができた。色街ではなく花柳街と書いたのは、茨城県は群馬や埼玉と同じく廃娼県であり、公に遊廓の設置を認めていなかったからである。
 花柳街の芸者の中にも不見転(みずてん)と呼ばれた体を売る芸者がいて、遊廓の役割を担っていた。さらに時代が下ると、水戸駅からも近く交通の便の良い奈良屋町に、駱駝屋と呼ばれた私娼窟が形成されていった。東照宮と隣接しているというのも、人を呼ぶのに好都合であった。江戸も昭和も人間の心理は変わらないのである。
 一九五五(昭和三十)年に刊行された『全国女性街ガイド』(渡辺寛・著)によれば、奈良屋町には、四十軒、百三十六人の娼婦がいたという。
 奈良屋町を歩いてみると、時代を感じさせるラーメン屋やかつては娼婦がいたと思わせる建物が数軒残っていた。『茨城の占領時代』(二〇〇一年・茨城新聞社)という資料をめくってみると、戦後直後米軍が進駐してきた頃のことが記されていた。大工町で現在も営業する料亭山口楼の二代目山口喜八郎がインタビューに答えている。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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