よみもの・連載

軍都と色街

第十章 北関東

八木澤高明Takaaki Yagisawa

米軍の進駐と慰安所
 土浦に米軍が進駐した当時の様子を知ることができる格好の資料がある。終戦時に土浦警察署の署長だった池田博彦によって書かれた『警察署長の手記』(筑波書林 一九八三)である。
 米軍向けに開設された慰安所についても詳しい記述があった。
 池田は、航空隊のあった土浦への進駐を前にして、ひと足先に米軍が進駐していた横浜の様子を視察するため署員を派遣した。派遣の重要な任務は、米兵相手の慰安所がどのように運営されているのかを視察することだった。
 一九四五年九月九日に土浦を出発した署員たちは、同月十一日に帰着し、このような報告書を残している。
 貴重な記録であるので、要旨をまとめて、記したい。


一 進駐軍は進駐当時より、活動範囲を広げ、拳銃で通行人を脅すなどして、慰安所への道案内を強要したりしているので、慰安所の場所を秘匿することは不可能である。進駐当初は拳銃で脅し、無銭で登楼する者も多かった。


二 現在、横浜の市内に慰安所が三ヶ所ある。大丸谷地区、真金町遊廓地区、曙町地区である。大丸谷には、一戸接待婦二十名位、通訳二名、米軍憲兵中尉が隊長として憲兵七、八名にて進駐軍に対する警戒をしている。真金町遊廓、曙町には業者約三十戸、一戸接待婦二、三名程度、バラック建てで、中を伺うと通訳はいない。直接米兵と接待婦が取引をしていた。憲兵は戸数が多いこともあり、巡回警備をしていた。どの慰安所も一回の交際は一ドル(日本円で四円二十五銭位)、軍票では十円。接待婦一人で相手にした客の数は最高で五十人。接待婦は局部に「フノリ」又は「クリーム」を用いる。隔日で局部の健康診断。開店時間は基本的に午後一時より十時、下士官兵で午前中より来る者がいると、その時間から開店する。士官は同じ慰安所を利用しているが、午後十時以降に来る者が多い。何(ど)の店も、数十名が列をなしていて、日本人が物資の配給に並ぶような有様だった。


三 米軍進駐当初よりは、暴行事件は減っているが、市民の話を聞いてみると、市内の焼け跡などでは、強姦、凌辱などの事案は少なくないという。

視察の結果最も必要なこと

1 要求はなくても市街地などに予め慰安施設を準備すること

2 接待婦用として「フノリ」又は「クリーム」等の配給準備

3 土産物屋の設置。進駐軍はみやげ品漁りをするので、その予防の為

4 米憲兵の派遣要求

5 警察官は夜間は必ず提灯携行のこと

6 言語が通じず、拳銃をつきつけられたら、一度は両手を挙げること

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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