よみもの・連載

軍都と色街

第十章 北関東

八木澤高明Takaaki Yagisawa

水戸歩兵第二連隊と谷中花街の今
 私たちが向かったのは、二流の花柳界と評されていた兵隊向けの谷中花街だった。
 花街ができるきっかけとなったのは、西南の役や日清戦争、日露戦争に出征した歩兵第二連隊が一九〇九(明治四十二)年に水戸へ転営してきたことにあった。
 繰り返しになるが、水戸駅の周辺には、大工町に花街、奈良野町には私娼窟があった。どれも町の中心部ということもあり、将兵たちがそれらの色街に出入りする姿を市民に見られることを軍部は憚(はばか)ったことが、連隊の兵営からほど近い場所に花街が形成された理由のひとつではないだろうか。
 谷中花街は、桂岸寺という寺の門前に形成され、『全国女性街ガイド』によれば、十一軒の芸妓屋があり、九十名の芸妓がいたという。
 私は桂岸寺の駐車場に車を止めて、花街跡を歩いてみることにした。車を止めて歩こうとしたら水戸天狗党の墓という文字が目に入った。恥ずかしながら、その時、桂岸寺に隣接する回天神社に水戸天狗党の墓があることを初めて知った。
 花街跡を歩く前に、まずは天狗党の墓に向かった。
 水戸藩の尊王攘夷派によって結成された天狗党は、一八五九(安政六)年に開港されていた横浜港の鎖港などを求めて筑波山で挙兵した。
 当初は百人にも満たない天狗党だったが、挙兵とともに参加する者たちが増え、一時は千人を超えたという。
 勢力が拡大した天狗党にひとつの問題が発生した。深刻な軍資金不足に陥ったのだ。そこで天狗党が取った行動は、富農や商人などから金品を強奪するという最悪の手段だった。
 幕府から追討軍も差し向けられ、民心も離れた天狗党は、単なる暴徒の集団となってしまった。天狗党は最後の手段として、朝廷に尊王攘夷を訴えようと、京都を目指した。その時点で千名ほどの勢力を維持していたこともあり、幕府から追討令が出ていたが、正面から天狗党とぶつかる藩は、下仁田で戦った高崎藩や和田峠で一戦交じえた松本藩のみで、ほとんどの藩は、見てみぬふりをした。
 ところが、中山道から京都へ近づくと、幕府側も、加賀藩、会津藩、桑名藩の四千名の兵を従えて天狗党の討伐に向かった。正面突破が厳しいと敦賀方面に迂回(うかい)した天狗党だったが、徐々に包囲を狭められ、挙兵から約九ヶ月、現在の福井県敦賀市で投降した。
 これにより天狗党の乱は鎮圧された。乱後、約八百名の天狗党一党は、十六棟の鰊倉(にしんぐら)に監禁された。大人数が鰊倉に押し込められたこともあり、衛生状態は最悪で、二十名以上が死亡。その後三百五十二名が処刑された。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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