よみもの・連載

軍都と色街

第十章 北関東

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 土浦への米軍の本格的な進駐は九月二十日、極東空軍第五航空戦隊情報隊の二百名からはじまった。十月一日には本土上陸作戦に参加する予定だった第八軍第十一師団第六三七戦車駆逐大隊も八百名も進駐。九月二十日から慰安所も稼働しはじめた。米兵たちは、睾丸を握り潰されることもなく、慰安所へ繰り出した。
 土浦市と阿見町の境に慰安所を開設し、特殊飲食店接待婦五十四名をもって営業を開始したという。
 開設された慰安所に対して、十月に入ると米軍側から三つの要望が出された。
 一つ目は、米軍士官クラブと指定された料亭霞月楼に出入りする接待婦を特定すること。二つ目は、慰安所と特飲指定地の接待婦全員の性病検査をすること。三つ目は、士官用の飲食店を選定することだった。
 そうした要望書が出されるほど、慰安所は繁盛したのだった。十二月に入ると、黒人専用の慰安所の建設も検討されたが、進駐していた米兵が撤収することになり、その計画は立ち消えになるとともに、一九四六年一月に慰安所は閉鎖され、元の警察官合宿所に戻ったのだった。

 米軍からの要望の中に登場する料亭霞月楼。それは今も同じ場所で営業を続けている。そして、もともとは日本海軍御用達の料亭として知られていた。
 土浦市内で営業を始めたのは、一八八九(明治二十二)年のことだった。その後霞ヶ浦海軍航空隊ができると、士官たちが足繁く通う料亭となった。そうした士官たちの中に、後の連合艦隊司令長官山本五十六がいた。当時、霞ヶ浦海軍航空隊教頭兼副長だった山本は、霞月楼の二代目夫婦に息子のように可愛がられたという。
 山本は霞ヶ浦海軍航空隊時代に、航空機が今後の海戦において主役となると確信したこともあり、航空戦力の充実に力を注いだのだった。霞月楼は、山本と極めて濃い縁で結ばれていた。後の真珠湾攻撃の三日前には、二代目夫婦宛に、広島県呉沖に停泊していた戦艦長門から「最後のご奉公に精進致し居り候」という言葉で結ばれていた手紙を書き送った。
 最後のご奉公という言葉は、何を意味するのだろうか。日米開戦を前に一年は暴れまわって見せますと言ったという山本のことだから、戦いが長くなれば日本が不利となり、己の命も投げ出さなければならないという覚悟の表れだったように思えてならない。
 そして一九四三(昭和十八)年。南太平洋、ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜されて戦死し、生きて霞月楼に足を運ぶことはなかった。
 終戦によって、霞月楼を利用したのは日本海軍の士官に代わって、土浦に進駐した米軍の士官たちだった。
 料亭を巡る客の移り変わりというものにも戦争の勝者と敗者の物語が色濃く反映している。料亭の経営者からしてみれば、米軍の軍人を迎え入れることになろうとは、思いもしなかったのではないか。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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