よみもの・連載

軍都と色街

第十章 北関東

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 西那須野は、明治初年の段階で、ところどころに赤松その他の木がある原っぱで、その幅は三キロから四キロ、長さが十五キロに及ぶ広大な場所だった。
 こうした原っぱは、江戸時代から明治初年にかけて、周辺農村の入会秣場(まぐさば)として利用された。秣とは馬の餌や畑の肥料となる草のことである。秣場は自然に形成されたわけではなく、毎年春に火を放ち、木の芽を燃やすことにより、森林化を防いで維持していた。
 秣場として、周辺の農民たちに利用されていた西那須野に目をつけたのが、明治政府だった。当時、東京以北で西那須野ほどの広さを持つ原野は北海道を除いて他にはなかった。
 明治政府は、一八七八(明治十一)年頃までに、民有地でも公有地でもなかった西那須野を官有地に編入すると、開墾事業を大々的に進めたのだった。

 西那須野への移住者には、長野県人が少なくなかった。その背景には、日本の生糸の主な輸出先であったヨーロッパにおける生糸価格の大暴落などによって、農村が窮乏したことがあった。
 長野県の山間部は、養蚕によって現金収入を得ている農家が多く、生糸価格の暴落により農地を手放した農民が、新天地のひとつとして目指したのが西那須野であった。長野県は、満蒙開拓移民が全国一多かった県であり、ソ連参戦後に集団自決した移民など、多くの悲劇を生み出したのだった。
 長野県ではないが、もう少し時代が下った一八八四(明治十七)年には、隣接する埼玉県において、やはり生糸価格の暴落により疲弊した秩父の農民たちが蜂起する秩父事件が起きるなど、士族の困窮ばかりではなく農村の貧困も深刻な社会問題となっていた。
 彼女の一族は、どこから西那須野に入植したのか定かではないが、新天地として移り住んだ西那須野でも生活は困窮し、一家の生活を支えるために南洋まで流れてきたのだろう。
 戦争の陰で時代に翻弄される人々の悲哀を感じずにはいられない。

 コロールには遊廓があったと記したが、そこで実際に働いていた娼婦の手記が出版されている。元娼婦の玉井紀子によって書かれた、『日の丸を腰に巻いて』(徳間書店 一九八四)である。
 紀子は徳之家という料理屋で働き、そこには芸者と酌婦が六十人はいたという。徳之家の経営者は九州の出身で、大正時代にコロールでひと旗あげようとやってきて、おでん屋からはじめて、大成功したのだった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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