よみもの・連載

軍都と色街

第十章 北関東

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 霞ヶ浦の色街潮来は、水運の衰退とともに寂れる一方だったが、土浦はその後も生き続けた。その理由は海軍の飛行場だった。
 一九二二(大正十一)年に霞ヶ浦海軍航空隊が設立されると、土浦の街中にあった私娼を置いた曖昧屋などは、風紀の取り締まりのため、桜町周辺に集められた。そして、桜町に三業地が形成されたのだった。
 戦後、売春防止法が施行されたことにより、遊廓は消えて、ソープランドなどの今日の姿となったのだ。桜町は実に百年近い歴史がある。
 軍人相手の色街だったことが、今日まで栄えるきっかけとなった。ただ今はもちろん、軍人の姿はなく、ラフな格好をした若者たちが肩で風を切って歩いている。

 霞ヶ浦航空隊が置かれた阿見町は、もともとは阿見原と呼ばれ、江戸時代には農民たちが秣を取る広大な入会地や荒蕪地(こうぶち)だった。それが明治時代に入ると、当地を旅した西洋人などからこれだけの土地が手付かずなのは、勿体無(もったいな)いという声が上がった。西洋人は明治政府に、大規模な農場として茶などの換金作物を栽培することを勧めた。それを受けて明治政府は、前に触れた西那須野と同じように士族授産のための開拓地としたのだった。
 阿見原開墾と呼ばれたその事業は、和歌山県の士族津田出(つだいずる)などによって行われた。西洋式農具と耕作馬によって開墾するなど、これまでにない農場運営を進めたが、結局は成功せず、土地は周辺の農民に売却されることとなった。それに対して、これまで農場で働いていた小作民たちが納得せず、大きな争議に発展したほどだった。結局、霞ヶ浦海軍航空隊が設置されることになり、海軍が土地を買い取り、士族や農民たちが開いた土地は軍用地となった。
 霞ヶ浦海軍航空隊では、昭和に入ると予科練と呼ばれた、海軍の搭乗員養成所が置かれた。約二万四千人が霞ヶ浦で飛行訓練を行い、戦地へと飛び立った。終戦近くになると、特攻隊の訓練も行われたのだった。搭乗員の中には、撃墜王として名を馳(は)せた坂井三郎もいたが、戦死率は高く、約八十パーセントにあたる一万九千人が戦死した。
 太平洋における戦いで日本軍の一翼を担った霞ヶ浦海軍航空隊は、日本の敗戦とともに消滅した。そこに代わってやって来たのが米軍だった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

Back number