よみもの・連載

軍都と色街

第十章 北関東

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 今も彼の地に残る獄舎跡には、血痕や「五月二十四日を忘れるな」といった文字が残されているという。

 尼港事件では、戦った兵士以上に、彼(か)の地に暮らしていた市民に多くの死者が出た。邦人の死者数は三百八十三名だが、ロシア人などを含めると、人口の半分にあたる六千名以上が虐殺されたという。
 シベリアという土地、そして大正時代というこの事件の時代背景から、私が思い浮かべたのは、主に九州の天草や島原からアジアや南米、アフリカ、さらにはシベリアまで渡って、体を売ったからゆきさんの存在である。
 石碑を眺めながら、からゆきさんも犠牲になったのではないかと思った。事件の起きた一九二〇(大正九)年に発行された『海外醜業婦問題』という冊子が、熊本県の舒文堂河島書店から復刊されている。
 冊子によれば、ウラジオストクやニコリスクなどのロシアには、当時二千三百六十人の日本人女性が暮らしていて、その約半数が娼婦か外国人の妾だったという。
 ロシアのウラジオストクには、明治の初めからすでに島原や天草の女性たちが働く娼館があったという。江戸時代の末期から、ロシアの東洋艦隊は港が凍る冬の間は長崎港を利用しており、水兵たちの相手を天草や島原の女性たちがしたのだった。森崎和江の『からゆきさん』によれば、水兵たちの相手をすれば、多額の現金を稼ぐことができ、妾を希望する女性が少なくなかったという。
 ウラジオストクと長崎の間には定期航路も明治時代には開かれ、そこを拠点にシベリアの奥地へと天草や島原のからゆきさんは働き口を求めて行ったのだった。
 以前、島原半島を旅した時にからゆきさんの寄進によって建てられた大師堂を訪ねた。そこの玉垣にもシベリアのからゆきさんが寄進したものが残されていた。そして、住職の広田言証(ひろたごんしょう)も長崎とウラジオストク間の船便を利用して、シベリアを訪ねて、からゆきさんたちの菩提を弔っていた。
『天草海外発展史』(北野典夫・著)によれば、天草出身者がニコラエフスクに入ったのは、一八九五(明治二十八)年だという。二組の夫婦が女性たちを連れて行き、水商売を営んだ。時おり二組の夫婦が天草に帰ると、彼らの成功を目にした天草の人々が渡航するようになったのだった。
 私が想像する以上に、明治から大正にかけての日本は、世界と密接に繋がっていたのだった。そして、尼港事件でも天草出身者が百十人犠牲になっている。そのうちの五十六人が女性である。それが意味することは、間違いなくからゆきさんもその五十六人の中に含まれているということである。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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