よみもの・連載

軍都と色街

第十章 北関東

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 日本軍は約二ヶ月にわたって、米軍を苦しめたが、物量の差は如何ともしがたく、中川大佐は一九四四年十一月二十四日、連隊旗を奉焼したのち、「サクラサクラサクラ」ではじまる有名な訣別電報をパラオの司令部に打電し、組織的抵抗を終えた。

 この激戦地にひとつの伝承がある。信用するに値しないと、取り上げることを拒む作家も少なくない。ペリリュー島で生き残った日本兵は三十四名にすぎないことから、日本軍側から伝えられた話ではない。米兵や島民たちに語り継がれている話で、それはひとりの慰安婦が心を寄せていた日本軍の士官とともに戦い戦死したというのだ。
『日の丸を腰に巻いて』によれば、米軍が上陸するまで、沖縄出身の男性が経営するパンパン屋がペリリュー島にあって、そこで働いている女性は沖縄の出身だった。
 実際に島に残されている話によれば、女性の名は久松といい沖縄の出身だという。両国の公文書などには残されていない、こうした話は、眉唾であると言ってしまうのは簡単だが、私の心には引っかかる。
 人々から人々へ口承で伝えられてきた物語の中にも、れっきとした事実が残されているはずだ。文字だけではなく、人々の記憶にだけ残されている話を掘り起こしていきたいと思っていることもあり、あえて触れさせてもらった。

 南洋で華々しく玉砕した歩兵第二連隊は、ノンフィクションでも数多く取り上げられている。その陰で、本来満州の嫩江(のんこう)でソ連軍に備えるはずだった歩兵第二連隊がペリリューへ抽出されてしまったため、一九四五年八月にソ連が満州へ侵攻すると、彼の地に暮らしていた開拓民にとんでもない惨劇が降り注いだのは紛れもない事実である。
 当時の満州には二十七万人の開拓移民、その中に満州開拓青年義勇隊の青少年たちもいた。一九三八(昭和十三)年から満州に送り込まれた十四歳から十九歳の青少年たちは約九万人。義勇隊の訓練所も嫩江にあった。彼らは、関東軍が自分たちを守ってくれると疑いなく思っていた。しかし、圧倒的な兵力のソ連軍を前に、いくつもの師団が南方へと抽出されていた関東軍は、すでに張り子の虎であった。ソ連軍の暴力行為によって、八万人の開拓移民が亡くなった。
 一般市民を守ることができない軍隊によって、失われた命。あれから八十年近くの年月が過ぎたが、このコロナ禍で政府の取っている行動を見ると、まったく同じことが繰り返されているように思えてならない。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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