よみもの・連載

軍都と色街

第十章 北関東

八木澤高明Takaaki Yagisawa

ペリリュー島の激戦と色街
 時代は下って、太平洋戦争末期に水戸の第二連隊が送り込まれたのが、激戦の地として知られているペリリュー島だった。
 パラオ諸島のひとつペリリュー島は、スペイン、ドイツ領を経て、第一次世界大戦後の講和条約で日本のものとなった。軍政を敷いたのち、一九一九(大正八)年に日本の委任統治領となった。日本政府は南洋庁を創設し、本格的な統治に着手する。
 五百の島々からなるパラオ共和国の中心地はコロール島である。コロール島にはかつて首都だったコロールというパラオ諸島最大の街があった。日本の統治時代には日本人の移民たちも暮らし大いに栄えたのだった。その時代に、現地の日本人や軍人たちを相手にする料亭や慰安所もあった。
 星亮一『アンガウル、ペリリュー戦記』(河出書房新社 二〇〇八年)によると、米軍が迫るなか赤紙が届いて現地召集されることになった倉田洋二は、召集される一週間前にコロールにあった遊廓に登楼した。そこで思わぬ出会いがあった。


《そこは料亭「鶴の家」といい、格式の高い遊郭で、南洋庁の高官や軍の将校が出入りしていた。コロール島の色街は空襲で大分、焼けてしまったが、鶴の家は残っていた。
死ぬと決まると、なぜか女性とときを過ごしたくなるものである。召集された人々は、ものにつかれたように遊廓に足を運んだ。(中略)
そこで出会った女性は、なんと少年のころに過ごした栃木の人だった。
西那須野の農家の娘で、凶作のために身売りされ、パラオまで来たのである。
そういう人がこの世にいることを、倉田は初めて知った。》


 遊廓の女性ばかりではなく、当時南洋と呼ばれたパラオやマリアナ諸島には、日本での貧しい生活から逃れようと島に来た者も少なくなかった。
 南洋に多くの移民を送り込んだのは、沖縄県だった。太平洋戦争開戦以前、主たる産業がなく、人口密度も全国一位だった沖縄は、ハワイやアメリカなどにも多くの人々が渡るなど、移民へのアレルギーもなかった。南洋と気候も似ており、主要な農作物であるサトウキビの栽培などにも馴(な)れていたことから、移民として重用されたのだった。
 コロールにいた娼婦に話を戻すと、娼婦の出身地である西那須野は、明治時代になって大規模に開墾されたことでも知られている。西那須野のかつての様子を『西那須野町の開拓史』(西那須野町史双書 二〇〇〇年)を参考にしながら記してみたい。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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