よみもの・連載

軍都と色街

第十章 北関東

八木澤高明Takaaki Yagisawa

記者 戦後、占領軍が二十年の十月五日に入ってくるわけですが、県内四ヶ所に集中したわけです。そのとき警察から三業組合を通じて、いわゆる売春、女性をあてがうことをやったんですね。水戸の場合はその対応はどうだったんですか?
山口 そういう場所では、奈良屋町はありました。しかし占領軍のための売春の要求はまったくありませんでした。奈良屋町はありましたが、当時、遊びの場所として、ああいうものを置いた方が、犯罪防止にはいいという警察の感覚だったんじゃないですか。(中略)
記者 奈良屋町のほかに、谷中にもありましたね。
山口 谷中は歴史は浅いんですが、兵隊さんの慰安所として花柳界があそこへできたんです。大工町を一流とすれば谷中は二流でした。本当の芸者衆の花柳界が大工町より前にあったのが竹隈なんです、下市の。あの辺が中心になってもともとの水戸の花柳界が作られていったんです。
記者 かつての花柳界の人数をもう一度教えてください。
山口 全盛期には大工町百二十、奈良屋町七十、下市が三十ですね。


 山口楼の主人は、米兵向けの慰安所の存在を否定しているが、『茨城の占領時代』の著者のひとりである生田目靖史は、奈良屋町に米兵向けの慰安所があったと指摘している。


警察と三業組合が、占領軍に対して相手をする女性を、正式に特殊慰安婦と呼んだんです。そして奈良屋町で何軒かを、占領軍のご用達として指定し、特殊慰安婦を置いたんです。昭和二○年の一〇月ごろから二一年の二月いっぱいまでです。二二年になるとなくなりました。


 奈良屋町に関しては、戦前から私娼窟として成り立っていたこともあり、戦後になって米兵向けの慰安所ができることは自然の流れのようにも思える。興味深いのは、『茨城の占領時代』を読んでいくと、戦時中も日本軍の兵隊を相手に色街は営業を続けていたと記されていたことだ。
 奈良屋町で父親が料亭を経営していたという青木光一郎さんによれば、陸軍の特攻隊員が出撃前夜には、奈良屋町の料亭で盛大な別れの宴を張ったという。
 そして翌日、いざ出発となった際には、特攻機が上空を二度ほど旋回していった。住民たちは屋根の上に上ってその様子を見守り、実際に青木さんも数回目撃したという。私はその話を読んで、かつて訪ねた鹿児島県鹿屋(かのや)のことを思い出した。
 鹿屋は軍都と色街を巡る旅のなかで、最初に訪ねた土地だった。そこで地元の和菓子屋の女主人が、鹿屋飛行場を飛び立った特攻機が、翼を上下に振る別れの挨拶をして、飛び去っていったと話してくれた。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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