よみもの・連載

軍都と色街

第十章 北関東

八木澤高明Takaaki Yagisawa

尼港事件と天草
 水戸歩兵第二連隊のかつての練兵場は、谷中花街から車で五分ほどの場所にあった。今では武道館や野球場となっている。練兵場となる以前は荒地だったという。
 日露戦争後、日本政府は軍備拡張を進め、各地に兵営を置くことを決定する。その情報が世間に流れると、全国で活発な誘致運動が起きた。
 ここ水戸でも例外ではなく、兵営ができることにより経済発展を望む市民が誘致運動を展開したのだった。
 数ヶ所の町が立候補し、最終的に陸軍が決定したのが、堀原と呼ばれた、この場所だった。
 一九〇九(明治四十二)年に兵営ができると、すぐに私が話を聞いた谷中花街が形成された。花街ばかりではなく、軍人相手の商売で人口は急増し、一九二〇(大正九)年の人口は五千五百四十一人だったのが、その十年後の一九三〇(昭和五)年には、約二倍になっている。
 軍隊というものが、ひとつの経済装置だったことが、よくわかる。戦前の日本において、軍隊は荒地に花を咲かせる存在であった。
 軍拡、軍国主義というのは、今日では否定的な見方をする人が少なくないが、少なくとも兵営が置かれた周辺の町では、軍隊は歓迎すべき存在であり、日本が突き進んだ軍拡の道というのは、政府だけでなく、人々の支持を受けていたことは間違いない。

 兵営跡には、大きな碑が建っていた。刻まれていたのは、尼港(にこう)殉難者記念碑という文字だった。
 碑の近くにあった説明板を要約すると、一九二〇(大正九)年のシベリア出兵の際に、出征した水戸歩兵第二連隊に降りかかった悲劇が尼港事件だった。
 ロシア名でニコラエフスクと呼ばれたシベリアの町で、治安維持及び在留邦人の保護に当たっていた第二連隊三百二十名と邦人三百八十三名が、パルチザンによって惨殺された事件が尼港事件である。
 パルチザンとの戦闘は、一九二〇年の二月からはじまり、四千名ほどの勢力のパルチザンを前に、連隊は善戦したものの、次第に死傷者が続出し、三月に入ると、共に戦っていた石田副領事は家族と共に自決。碑文によれば、三月十九日にパルチザンの謀略により停戦に応じると、武装解除後、全員投獄され獄中生活を送った。
 五月下旬に日本軍の救援部隊の接近を察知したパルチザンは、獄内外の日本人全員を惨殺し、遁走(とんそう)した。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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