よみもの・連載

軍都と色街

第十章 北関東

八木澤高明Takaaki Yagisawa

軍都宇都宮と色街、そして満州
 私が初めて、北関東の歓楽街に足を踏み入れたのは、今から二十年ほど前のことだった。その当時写真週刊誌のカメラマンをしていた私は、まだ軍都と色街というテーマで取材をしておらず、その関連については、まったく知識もなかった。
 初めて訪ねた歓楽街というのは、宇都宮だった。
 色街として歴史に触れていくと、城下町だった宇都宮は奥州街道の宿場町でもあり、伝馬町などには飯盛り女を置いた旅籠や芸妓屋などで、大いに賑わったのだった。
 明治に入っても、町の賑わいは変わらなかった。宇都宮市は各所に点在していた私娼を置いた店や堂々と営業する貸座敷の存在は風紀を乱すものとして、一ヶ所に集めて営業させることにし、一八九四(明治二十七)年に新地遊廓を設置したのだった。新地遊廓には、百人ほどの娼妓がいたという。新地遊廓は、もともと町外れの荒地に作られたこともあり、現在の二荒町(ふたあらまち)のあたりには私娼窟が形成された。一九三三(昭和八)年内務省衛生局の調べでは、二荒町には九十五軒の店に百六十二名の私娼がいた。
 北関東の経済の中心地、二荒山神社の門前町としての賑わいに加えて、一九〇七(明治四十)年に第十四師団が置かれると、町はさらに繁栄したのだった。軍隊に付随して、宇都宮周辺は森林が多かったこともあり、それらを切り開いて、日本最大の航空機会社だった中島飛行機の宇都宮製作所などの軍事工場が多く作られた。
 戦後、それらの軍事工場は、スバルで知られる富士工業(現社名・SUBARU)宇都宮製作所などに変わり、工業団地へと変貌していった。色街は、その後も近隣の工場労働者やサラリーマンなどを相手にしながら命脈を保ち、宇都宮駅周辺のスナックなどでは、タイ人の娼婦が体を売っていたのだった。その移り変わりは、土浦と同じ道を歩んでいるように思える。

 私が宇都宮を訪ねたのは、何とも陰惨な事件の取材だった。
 中年の男が、再婚した妻の連れ子だった男児を金槌で殴り殺して逮捕されたのだった。犯人の前妻はフィリピン人だった。前妻の消息を尋ねて、宇都宮駅東口にあったフィリピンパブを連日、梯子(はしご)した。
 フィリピンパブを取材しているうちに、同じ雑居ビルに入っているタイ人の女が働いているスナックでは、ホテルにホステスを連れ出せることを知った。東口には、タイ人女性が働く何軒もの連れ出しスナックがあった。
 西口にある何軒かの韓国エステでは、本番のサービスをしていると知り、一緒に現場に入っていた記者と行ったこともあった。今から思えば、そこは戦前に私娼窟だった場所だった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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