よみもの・連載

軍都と色街

第十章 北関東

八木澤高明Takaaki Yagisawa

栃木県の軍都と色街を歩く
 北関東において、タイ人女性など外国人女性が多く水商売やスナックで春を売っていたのは、茨城ばかりではなく、群馬や栃木でも似たような色街が形成されていた。
 色街の根っこは江戸時代の街道筋からはじまり、そして昭和の軍隊へと結びつく。
 奥州街道や日光例幣使街道といった主要な街道が通っていた栃木県の、大きな宿場には、飯盛り女たちの姿があった。
 宿場で旅人相手に春を売った彼女たちは、明治時代に入り、鉄道が整備され、各地の宿場が廃れると、新しくできた駅周辺の遊廓に吸収された。
 ひとつ例をあげれば、日光例幣使街道の宿場として知られていた栃木県佐野市に犬伏(いぬぶし)宿がある。歴史好きな人なら、犬伏という地名を聞いただけでピンとくるだろう。
 関ヶ原の戦いの前夜、真田父子が、徳川家康に従い会津攻めに向かう途中、戦乱の世においてお家存続のため別れた場所でもあった。
 その犬伏宿は、当時から道幅も広く、比較的大きな家屋が軒を連ねていたという。
 旅籠の数は四十軒ほどだった。すべての旅籠が飯盛り女を置いた旅籠ではなかっただろうから、半分の旅籠に二人の飯盛り女がいたとして、少なくとも四十人はいたのではないだろうか。
 犬伏宿を訪ねてみた。真田父子別れの場となった薬師堂から、宿場内を歩いてみると、今も、道幅が広いのはかつての名残だろうか。ただ、ほとんどの建物が、近年建てられた住宅ばかりで、江戸時代の宿場町という雰囲気は漂ってこない。
 この宿場の飯盛り女たちは、明治時代になると、佐野市内にあった堀米遊廓に吸収されたのだった。
 その佐野市では、若き日の作家司馬遼太郎が戦車連隊の士官として本土決戦に備えていた。やはり満州から抽出された司馬の所属していた連隊は、米軍が上陸した後に、内陸部で迎え撃つことになっていたという。
 関西で生まれ育った司馬は、著書『司馬遼太郎が考えたこと』(新潮文庫 二〇〇四年)の中で佐野の町について触れている。


《いかにも富裕な町といった感じで、どんな小さな家でもたたずまいが清潔であった。
杉板の表面を炭化させた家々の側面がときどき露地をつくっていて、露地のむこうには軒瓦の列と格子戸が見え、その向こう通りをゆくひとの下駄の音がきこえるほど静かだった。
私は兵隊にとられて、山の中で最初の訓練を受けて以来、二年ぶりで日本の町というものの中を歩いていた。私自身、町育ちのせいか、佐野の露地から露地へ通りぬけるのが、たまらなく好きだった。》


 エッセイの中には、遊廓の話は出てこないが、司馬が駐屯している時代には、文章を読む限り落ち着いた風情の町の中に間違いなく遊廓が存在していたのだった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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