よみもの・連載

軍都と色街

第十章 北関東

八木澤高明Takaaki Yagisawa

特攻の町、土浦の過去現在
 水戸での取材を終えて、次に向かったのは、霞ヶ浦のほとりにある町、土浦だった。
 JR土浦駅からのんびり歩いて十五分ほど。フアッションヘルスやソープランドが建ち並ぶ桜町がある。風俗店はかなりの規模で広がっている。路地から路地へとくまなく町を歩こうと思えば、三十分以上はかかる。
 昼間から店は開いていて、客引きの男たちが、「可愛い子いますよ」、「お店決まってますか」などと、次々に声をかけてくるのだった。
 一大風俗街である桜町ができたのは、大正時代のことだった。
 土浦周辺の色街の起源を遡れば、江戸時代における水上交通と水戸街道などの陸上交通に目を向けなければならない。利根川の東遷(とうせん)などによって、霞ヶ浦と江戸が河川を通じて水運で結ばれると、霞ヶ浦には物資を運ぶ船が行き交い、川湊のあった土浦には、船乗りたちを相手にする料亭などができていき、いつしか春を売る者たちが現れたのだった。
 霞ヶ浦には、土浦以外にも有名な色街として潮来(いたこ)がある。水郷の町として知られている潮来の色街も大いに栄えた。
 潮来の名が歴史に登場するのは大化の改新のころのことで、常陸(ひたち)と呼ばれた茨城県の国府だった石岡から鹿島神宮へと向かう街道筋に駅路が設けられたことにあった。そして、潮来がさらに繁栄したのは江戸時代に入ってからのことだった。
 奥州諸藩が米を江戸へ船で送る際に房総半島沖を航行することは、常に危険が伴った。そこで、多くの船は房総半島沖を通らず、利根川や江戸川を使って江戸へと向かったのだった。
 利根川から江戸へ向かう河岸には、川湊ができ、行き交う船が帆を休めたのだ。
 そのうちのひとつが、潮来だった。商いが盛んになり、多くの人々が行き交えば、当然ながら色街が形成された。
『全国遊廓案内』によれば、江戸時代には、水戸市内から娼家が移され、娼婦が百余名いたという。明治に入り鉄道が整備されるとともに水運は寂れ、色街も衰退、昭和のはじめにはわずか三軒、二十名ほどが春を売っていたという。
 それでも戦後の売春防止法施行までは営業していたが、今では色街としては消えてしまった。
 潮来遊廓は、浜丁通りという通り沿いにあった。かつてはひと昔前の建物も残っていたというが、今では往時の面影はほとんど残っていない。
 私が訪ねたのは、晴れわたった日で、霞ヶ浦の向こうに見える筑波山が美しかった。秀麗な景色とは裏腹に、消えた色街は、どこか仄暗(ほのぐら)く侘しさに包まれていたのだった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

Back number