よみもの・連載

軍都と色街

第十章 北関東

八木澤高明Takaaki Yagisawa

《娼家のまわりは全部「徳之家」が持っていました。借家にかまぼこ屋に、自動車も五、六台持って、自動車屋もやっていた。儲かってしょうがないのよねえ。楼主さんという人はあたしより十ほど上で、本妻と二号と三号を一軒のうちに住まわせていた。二号も三号も以前は「徳之家」でパンパンをしていました。女将さんはその時分で五十は過ぎてると思ったね。女将さんの方が年上だし、もうこれやらないんだ。男はもういらない。二号が娼家をとりしきってましたよ。》


 紀子がコロールにいたのは、太平洋戦争がはじまる前のことで、一九三七(昭和十二)年のことだった。ちょうど紀子がコロールにいた時期の徳之家が『別冊一億人の昭和史 日本の植民地史3』(毎日新聞社)に掲載されていた。一九三八(昭和十三)年の元旦に撮られたもので、多くの芸者や経営者と思われる夫婦などが日の丸をバックに写っている。後に激戦地となるとは、その写真に写っている誰もが夢にも思わなかったことだろう。写真からはのどかな空気が流れているのだった。

 太平洋戦争がはじまり、緒戦は日本が有利に戦いを進めたものの、次第に米軍の軍事力と工業力の前に、劣勢に追い込まれると、パラオは戦場となり、ペリリュー島で日米両軍の壮絶な死闘が繰り広げられたのだった。
 パラオ諸島のペリリュー島とアンガウル島には、その当時日本海軍の飛行場があった。太平洋の島々を次々と攻略しながら、絶対国防圏と呼ばれたサイパン島を落とし、次の目的地であったフィリピンを攻略するうえで、飛行場のあるパラオは戦略的な価値が高く、米軍はどうしても落としておく必要があった。
 このペリリュー島の防衛を主力として任されたのが、中川州男(くにお)大佐が率いる関東軍の精鋭第十四師団歩兵第二連隊だった。零下五十度の草原から四十度近い高温の南洋へと移動し、兵士たちもさぞかし戸惑ったことだろう。
 歩兵第二連隊は、一九四四(昭和十九)年四月にペリリュー島に派遣されると、陣地構築に励んだ。ペリリュー島の中央部には山岳地帯があり、そこを巧妙に利用して、長期の持久戦に耐える複郭(ふくかく)陣地を作り上げたのだった。
 一九四四年九月、日本軍守備隊一万人が守るペリリュー島に執拗な艦砲射撃と空襲を加えたのち米軍は四万人の兵力で上陸作戦を敢行した。
 米軍の目論見では、二日か三日で陥落させる予定だったという。事前の砲爆撃に絶対の自信を持っていて、最早日本兵はほとんど残っていないと思っていたのだ。
 ところが、日本軍の複郭陣地は米軍の攻撃を耐え抜いていた。上陸時、その後の島内の戦闘においても米軍には死者が続出した。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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