よみもの・連載

軍都と色街

第十章 北関東

八木澤高明Takaaki Yagisawa

土浦に現れたじゃぱゆきさん
 江戸時代の水運、大正に入ってからの海軍飛行場、終戦後の米軍とともに色街は、生き続けてきた。売春防止法が施行された後も、土浦周辺には、色街が存続し続けた。それは桜町の風俗街だけではなかった。荒川沖などに現れたじゃぱゆきさんのタイ人である。
 彼女たちは、スナックなどで春を売ったのだった。日本軍や米兵が消えたあともなぜ色街は残ったのだろうか。いくつか、思い当たる理由をあげてみたい。
 霞ヶ浦海軍航空隊の周辺には、航空機の部品などを作る工廠(こうしょう)など、軍関連の施設も多くあった。そうした施設のあった土地は、戦後になって民間に払い下げられた。それらの土地は民間の工場となり、周囲には住宅地も形成された。そして、霞ヶ浦海軍航空隊の敷地は今日まで自衛隊の施設として存続していること。
 荒川沖には、江戸時代から水戸街道が通っていて、陸上交通の要でもあったことから、人の流れがあり、さらに明治時代には常磐線が開通し、駅の周辺には当時から賑わいがあったことなどから、戦後になって、自衛隊員や付近に勤める労働者を主要な客として、じゃぱゆきさんが春を売る色街が形成されたのではないか。
 荒川沖周辺のスナックでは、一九八〇年代から二〇〇〇年代の初頭にかけて、多くのタイ人たちが春を売っていた。
 今でも、タイ料理店や数軒のスナックが残っている。こっそりと裏では続けているのかもしれないが、かつてのようにあけっぴろげでの売春は行われていない。
 JR荒川沖駅から常磐線に乗って、四駅で石岡駅に着く。石岡もかつては、多くのタイ人娼婦がスナックで働いていたことで知られていた。
 石岡の町中を歩いてみると、住宅街の中に、ぽつりぽつりと潰れたスナックが点在していた。それらは、娼婦や男たちが行き交った夢の跡だった。
 何軒かのスナック跡を写真に収めた後、たまたま営業しているタイレストランを見つけた。色街のタイレストランは、夕暮れ時から店を開けることが多いが、この店は昼間から営業していた。タイレストランの営業時間が色街は過去のものとなったことを物語っていた。
 店内に入ると、まったりとしたタイの民謡が流れ、ナンプラーと呼ばれる魚醤の匂いが鼻をついた。店には濃厚なタイの空気が漂っていた。
 広々とした店内の一角に、四十代から五十代のタイ人女性たちが固まって茶飲み話をしていると最初は思った。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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