よみもの・連載

軍都と色街

第十一章 富士山周辺の色街

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 竹内さんが満州に渡って二年が経った、一九四五(昭和二十)年八月にソ連軍が日ソ中立条約を破って満州に攻め込んできた。
「ソ連軍参戦の情報をいち早く得ていた満鉄の関係者などは、ひと足先に逃げているんです。私たちは取り残されて、現地召集されました。私は孫呉(そんご)という最前線に送られました。幸いにも大きな戦闘に巻き込まれることもなく、終戦を迎えました。ただ、感じたのは戦争遂行のためには人命など気にしない戦争の狂気ですね」
 四年間のシベリア抑留を経て、日本に帰国。竹内さんの父親が身を投じていた富士ヶ嶺の開拓に加わったのだった。
 そもそも富士ヶ嶺地区の開拓は、戦時中に計画されていたのだが、本格的に動き出したのは戦後のことだった。近隣の鳴沢村から約三十人が入植したのが、はじまりだった。その後、長野県出身の満州引揚者百戸を受け入れ本格的にスタートした。
 開拓草創期の暮らしについて竹内さんは言う。
「満州の生活より何より、今までの人生で一番苦しかったのが、開拓の時代だったな。水がなかったのが苦しかったね。風呂も入れないし、まずやらなきゃいけないのが、水汲みだった。大げさに聞こえるかもしれないけど、沢まで何度も往復して、水を汲みに行くだけで一日が終わる。家も粗末で、竹の小屋だったから、風はスースー吹き抜けていく。今からじゃ想像もできない生活だったんです」
 開拓民の人々は寒冷地で、しかも満足な水もなかったことから、粟や麦、大根などの作物を収穫して、正(まさ)にその日、その日を生き抜いた。
 電気が村に灯ったのは一九五七(昭和三十一)年のことで、地下水を利用した水道が整備されたのは、日本中が高度経済成長に浮かれ先の東京オリンピックが開催された一九六四(昭和三十九)年のことだった。富士ヶ嶺地区は、日本でありながら、高度経済成長とはまったく無縁の世界にあった。
 一九五三(昭和二十八)年に村に嫁いだ女性が『上九一色村富士ヶ嶺開拓五十年誌』に寄せた手記によると、バス停から二時間の道を歩いて辿(たど)りついた村は、電気も水道もなくランプの生活で、家には畳もなくムシロを敷いただけで、実家に帰りたいと何度も思ったという。
 竹内さんは、開拓に携わりながら、米軍基地の反対運動にも関わり、演習場の周辺でビラを配ったりしたという。
 私は、パンパンを見た記憶があるか尋ねてみた。
「米兵と一緒に歩いているパンパンは、多かったね。忍野八海だとか梨ケ原の辺りに部屋を借りて彼女たちは住んでいたんです。彼女たちにもビラを渡したりしたんですよ。今の様子からは、考えられない世界だったね」

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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