よみもの・連載

軍都と色街

第十一章 富士山周辺の色街

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 神町でかつて取材したこともあり、御殿場全体に落ちた十数億円というのは、驚くべき数字とは思わず、納得がいくのだった。果たして、日本全国でどれだけのドルが戦後の色街に落ちたのだろうか。原爆や空襲などにより身寄りを失った人も少なくなかったパンパンの女性たちの行為によって、地域の経済は紛れもなく救われたのだった。

御殿場線富士岡駅周辺を歩く
 御殿場界隈(かいわい)には、まだまだ色街が存在していた。それぞれの色街は、米軍が進駐した日本軍の演習場に付随していた。広大な富士山の裾野というのは、演習場として利用価値があったのだ。
 JR御殿場線の御殿場駅から沼津方面へ二駅目に富士岡という駅がある。駅の周辺には、歓楽街があるわけではなく、高層の建物も存在しない。営業している商店といえば、タバコ屋やラーメン屋が目につくぐらいだ。ホームの向こうに富士山が眺められることを除けば、どこにでもあるようなローカル線の駅である。
 その富士岡駅周辺にも色街があった。色街の取材をしていなければ、この場所に色街があったと気がつくこともなかっただろう。
 私が富士岡駅周辺に色街があったことを知ったのは、先に触れた、昭和二十八年に発行された「アサヒグラフ」の記事、「富士演習地界隈」である。
 富士岡駅を訪ねるにあたって、その記事をスキャンしてiPadに入れてきていた。あらためて、アサヒグラフに掲載されている写真を眺めてみた。
 砂埃(すなぼこり)が舞うような未舗装の道を米軍のジープが走り、壁にビアホールと大きく英語で書かれた家が線路沿いに建っている。
 その写真の場所は、今私が立っている富士岡駅の辺りと推察できるのだが、当然ながら今日の風景からはまったく想像できない。
 写真にはこのようなキャプションがつけられている。

“富士がなだらかに裾をひくあたり 無人の片田舎に突如として出現した色ペンキの街 その誕生の突飛さを物語って 単線の御殿場線の線路が駅からの道になっている すさまじい砂煙を捲き起して ジープがトラックが疾駆する 拭いても拭いても ビヤホールの卓は白くなる
そして現金が入る (富士岡)”

 今ではジープもトラックも走っておらず、忘れた頃にやってくる御殿場線から、ぽつりぽつりと降りてくる乗客の姿が目に入るだけである。そして、駅前のロータリーに彼らを迎えにきた軽自動車が、砂埃はおろか、申し訳なさそうに微(かす)かなエンジン音を立てて、走り去っていくのみだ。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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