よみもの・連載

軍都と色街

第十一章 富士山周辺の色街

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 しかも、トヨタの祖業と関わりが深い紡績工場は、男性が言った富士紡績の例だけではなく、戦前においては、経済的に苦しかった家を支えるために多くの女性たちが身を投じた場所でもあった。有名な例では、映画『あゝ野麦峠』で知られているが、長野県の諏訪を目指した飛騨地方の女性たちがいた。そうした女性たちの姿は、苦界に生きた女性たちとだぶって見えてしまう。彼女たちが編み込んだ糸は近代日本を支えた。今も盛んに利用されているIT技術や人工知能は、最早私たちの生活には欠かせないものである。ただ、先端技術については、心のどこかで頼りすぎることへの拒絶反応がある。トヨタが掲げる未来都市という場所の、根っこには、己の身を犠牲にして働いた女性たちがいたということを忘れてはならないと私は思う。

 米兵向けのバーが建ち並んでいたのは、基地のメインゲートから東の方向に向かって延びる、一本の道路沿いだったという。
 果たして、いつ頃から色街は形成されたのだろうか。話を聞いていた男性に尋ねた。
「米兵が来る前は、日本軍の基地だったから、その頃から、女の人を置いた店はあったって話だよ。自分が生まれる前のことだから、実際には見ていないけど、両親がそう言ってたよ。戦後になって米兵が来たら、さらに栄えたんだ」
 日本軍の基地というのは、一九三六(昭和十一)年にできた陸軍富士裾野演習場駒門厩舎のことである。
 かつて陸軍の師団や連隊が置かれた街に遊廓が設置されたのは、この連載で歩いてきた千歳、和歌山、大湊、水戸、信太山(しのだやま)など、いくつもの街で目にしてきた。それらの街の遊廓は、和歌山を除いて、公許を得て作られたものだった。ここ裾野演習場門前にできた色街は、調べた限り、公許を得たことは確認できなかった。おそらく飲み屋に娼婦を置いていた、曖昧屋であったのではないだろうか。
 それが、終戦後に規模を拡大し、多くの女性たちが全国から集まる街に変貌したのだった。
 男性の親戚が経営していたという店があった場所を訪ねてみると、そこは駐車場になっていた。近くに鰻屋などの飲食店はあるものの、ここに色街があったとは、歴史を知る人以外は気がつくことはないだろう。

米兵と恋した女性
 米軍基地のまわりには、多くのパンパンたちが集まり、米兵相手に春を売った。その後、日本経済が戦後の混乱から立ち直り、高度経済成長を迎えると、当然ながら基地周辺にあった米兵向けの色街は、姿を消していった。富士山周辺には、建物もほとんど残っておらず、米兵がいた時代のことは、人々の記憶の中にしか残っていない。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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