よみもの・連載

軍都と色街

第十一章 富士山周辺の色街

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 JR御殿場駅から、歩いて五分ほどの場所に、今も新天地と呼ばれる飲み屋街がある。富士山へと繋がるかつての登山道から歩いて数分ほど北に逸(そ)れた場所にあるのだが、そこがかつての色街である。
 新天地は、今では新宿ゴールデン街のような、趣きのあるスナックやバーなどが軒を連ねる飲み屋街となっている。
 戦後直後には、新天地周辺には、多くの米兵たちがパンパンたちを物色しに現れた。なだらかな傾斜のある土地に、飲み屋街は形成されていて、細い路地が入り組んでいる。コロナ禍で平日ということもあり、歩いている人の姿を見かけることはなかった。
 新天地について、戦前の日本各地の色街について記してある『全国遊廓案内』に記述があった。

 “近年避暑地として相当人に知られる様に成って来た。三国一の富士山も、茲(ここ)が最も雄大な姿を現はす処とされて居る。恐らく貸座敷の中で、寝乍(なが)ら富士を眺めらるゝのは茲位なものだらう。茲には貸座敷が、「鈴吉楼」一軒しか無いので宿場に成って居る。明治二十九年に創業した家で、娼妓が五人居る”

 その記述を読む限り、のんびりとした空気に包まれていたような雰囲気である。そんな空気とは裏腹に、貸座敷が営業をはじめた明治二十九年というのは、日清戦争が終結した翌年のことだ。日本は日清戦争の勝利によって、大陸への進出を本格化させる。その数年後には日露戦争が勃発することになる。遊廓ができた時期は、日本がロシアとの対立を見越して、軍備の拡張を急いでいた時期でもあった。
 そして、遊廓から眺められる富士の裾野は、『御殿場市史7』によれば、明治二十九年に初めて砲兵隊の射場として使用されたのだった。その後は、砲兵隊の射場だけではなく、師団の演習場としても使用されるようになったのだ。
 戦前の日本における、軍隊と色街の関係をこれまで全国各地で眺めてきたが、御殿場においても、軍部が射場から演習場へと規模を拡大させていくことを見越して、行政は遊廓設置を許可したのではないだろうか。
 しかし、戦前において、演習場があったものの、遊廓の数は一軒だけと、大いに賑(にぎ)わっていたような雰囲気は感じられない。
 御殿場の遊廓が大きく変貌するのは、終戦後米軍が進駐してからである。平井和子さんによる『米軍基地と「売買春」―御殿場の場合』が御殿場周辺の色街を詳しく記述している。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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