よみもの・連載

軍都と色街

第十一章 富士山周辺の色街

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 当時、オークランドを本拠地としていたオークランド・アスレチックスのファンで、メジャーリーガとなることを夢見た。高校卒業後プロテストを受けるなどしたが、その夢は叶(かな)わなかった。その後、海軍に入隊し、沖縄にも赴任した。
 海軍除隊後にスタートした音楽活動で、黒人やヒスパニックといった貧困層の音楽だったヒップホップを世界に認めさせた。
 そもそもヒップホップは、一九七〇年代にニューヨークのブロンクスで生まれた、アメリカにおいて比較的新しい音楽のジャンルである。ヒップホップが生まれた時代のブロンクスは、黒人やヒスパニック系が多く暮らし、殺人事件が絶えずドラッグが蔓延(まんえん)するとんでもなく治安の悪い街だった。
 そのブロンクスでヒップホップを広めた人物がアフリカ・バンバータである。彼は暴力で争うのではなく、文化で争えば流血を防げると提唱し、ブロンクスで荒(すさ)んだ暮らしをしていた若者たちを集めて、ヒップホップを認知させていったのだった。
『はじめてのアメリカ音楽史』(ジェームス・M・バーダマン、里中哲彦 ちくま新書)によれば、ヒップホップとは、ラップミュージック、ブレイクダンス、DJ、グラフティーという四つのカルチャーを包括したものだという。アメリカ社会の底辺で暮らし、日々の生活への不満や怒りを一番に感じていた黒人がダンスやラップで自身の心のうちを表現したのだった。

 かつて私は、ブロンクスと同じくニューヨーク市に属し、ヒップホップが盛んな土地として知られているブルックリンを訪ねたことがあった。アメリカ同時多発テロの取材だった。
 ブルックリンは被害者のひとりが暮らしていた街だった。亡くなったのは、六十代のベトナム人の女性で、炭疽菌によるテロでだった。
 宿を取っていたニューヨークの中心部から地下鉄に乗って、ブルックリンに向かった。私が訪ねた当時、以前より治安が良くなったとは聞いていたが、ビルの壁にはスプレーで落書きがされ、タクシーもニューヨークの中心部で走っているようなイエローキャブではなく、黒いリンカーンのタウンカーばかりだった。運転手もイエローキャブは南アジアやイランの出身者が多かったが、ブルックリンでは大柄な黒人男性だった。車内は、彼らが常用する整髪料の匂いなのか、嗅いだことのない甘ったるい香りが漂っていた。ブルックリンというと、黒人の運転するタクシーの匂いを思い出す。
 被害者のベトナム人はブルックリンの黒人街にある古ぼけたアパートに暮らしていた。断片的に伝わってきた情報によれば、ベトナム戦争時代に米兵の黒人男性と知り合い、アメリカの敗戦とともにベトナムを離れアメリカに移住したという。その後夫に先立たれ、ブルックリンでひとり暮らしていた。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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