よみもの・連載

軍都と色街

第九章 呉 岩国

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 各慰安施設は米兵たちで大盛況だったのだが、米兵に性病が蔓延したこともあり、わずか四ヶ月ほどで閉鎖されてしまった。それにより、行き場を失った慰安婦たちは、街頭に出てパンパンとなる道を選んだ。
 三宮に娼婦が多かったことを物語るエピソードがある、日本の敗戦から五年後には、朝鮮戦争が勃発するが、その際にも相変わらずパンパンが基地周辺で米兵たちを誘った。神戸基地司令官のW・A・コリアー大佐は、兵士たちが娼婦たちと遊ぶことによって性病が蔓延し、戦闘力が低下することを恐れ、基地周辺や三ノ宮駅や神戸駅周辺にパンパンの立ち入りを禁止するよう神戸市に要望を出した。それを受けて、警察はそれらの地域をパンパンたちの立ち入りを禁止する区域としたのだった。実際に取り締まりが行われ、検挙された女性が禁錮一年の判決を言い渡されている。

 三宮という地名を聞いて、どうしても触れておきたい人物がいる。スーパーダイエーの創業者でスーパー流通業界において天下を獲った中内㓛である。
 三宮の闇市で薬局を開業し、ヒロポンなどを売っていたのが中内だった。戦時中、フィリピンのルソン島に出征した中内は、飢餓戦線を彷徨(さまよ)い、米軍の陣地に忍び込み、盗んで食べた牛肉の缶詰のあまりの旨さに、もし生きて帰ることができたら、たらふく美味しいものを食べさせる仕事がしたいと思いスーパーを起業したと後年語っている。
 ちなみに中内が所属していたのは、フィリピン防衛のために編成された、独立混成第五十八旅団重砲兵第四大隊だった。国立公文書館アジア歴史資料センターに所蔵されている資料によれば、一九四四(昭和十九)年七月に満州の牡丹江省を出発し釜山港で輸送船に乗船、門司に寄港し、同年八月二十一日にマニラに到着している。
 翌年一月九日に米軍の上陸がはじまると、旅団は最前線で迎え撃つが、十分な戦果をあげることができず、ルソン島北部に撤退し、飢餓との戦いがはじまるのだった。旅団には、当初約一万三千名の将兵がいたが、生きて日本の土を踏めたのは一割に満たない千名ほどだった。
 日本軍はフィリピンにおける戦いで参加兵力六十三万人のうち、約五十万人の兵士が命を落とすという大敗北を喫した。太平洋戦争において、五十万人という戦死者数は単一の戦場としては最大の数で、戦没者の実に約四分の一にあたる。さらに、その五十万人の戦死者は、戦闘ではなく、餓えや病気によってそのほとんどが亡くなったのだった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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