よみもの・連載

軍都と色街

第九章 呉 岩国

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 終戦から朝鮮戦争にかけて、岩国基地の周辺には色街が形成されたが、バーが建ち並んでいた川下地区だけではなく、最盛期には、岩国駅周辺にも娼婦たちが客を連れ込む旅館が多くあったという。
 駅前周辺の連れ込み宿のことを知ったのは、岩国市の図書館で閲覧した『西中国新聞』の記事だった。
 その記事によれば、昭和三十年代初頭、岩国の米軍基地の司令官は、多くの兵士たちが、基地の外で日本人娼婦たちと同棲していることを問題視し、身元のはっきりしない女性たちとの同棲を禁止する命令を出した。それにより、困ったのは、米兵の落としていくドルを頼りに生活していた娼婦たちだった。
 収入源を断たれた娼婦たちは、日本人の客を取るために駅前周辺に立ち、連れ込み宿に客と入ったのだった。
 現在の駅前通りを歩いてみた。人通りもまばらで、お世辞にも活気があるとは言えない。どこの土地にも言えることだが、駅前の商店は郊外のショッピングモールに客を取られ、寂れる一方だ。
 そんな商店街の中に一軒だけ古めかしい旅館が残っていた。ここが娼婦たちの連れ込み宿だったという確証はないが、旅館の雰囲気は昭和の匂いを漂わせていた。

 トナの故郷阿品を訪ねた翌日、周防大島へと向かった。岩国を訪ねる数日前から降り続いていた雨がこの日止(や)んだ。
 青空の下、瀬戸内の海原を眺めながら車を走らせるのは爽快だった。岩国から一時間ほどで、周防大島町に着いた。まず向かったのは、日本ハワイ移住資料館だった。
 資料館は、古風な民家で落ち着いた雰囲気に包まれていた。案内板によれば、アメリカに渡り事業家として成功した福本長右衛門が建てた家を寄贈されたものだという。玄関を入ると板張りの廊下の左側の部屋は、十畳以上はある畳敷きの広々とした和室となっていた。これほどの規模ではないが、実家の和室に入ったような気分になったのだった。
 そもそも周防大島における移民は、トナのように石炭船の船底に押し込められて密航したからゆきさんではなく、日本政府が公的にすすめた移民政策で、官役移民と呼ばれ、一八八五(明治十八)年にはじまった。一九二四(大正十三)年にハワイで移民法が施行されるまで、日本人二十万人がハワイに渡ったという。第一回官役移民九百四十四人のうち三割が周防大島出身者だったこともあり、周防大島を中心に山口県からハワイを目指す者は増えていったのだった。
 江戸時代は水運の島として栄え、島の人々は船乗りや船大工、さらには織物などを生業としながら生活をしてきた。明治時代に入り、水運が廃れると、人々の生活は窮乏し、海外に活路を求めた。その場所が、今では日本人が多く訪れる観光地として知られているハワイだった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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