よみもの・連載

軍都と色街

第九章 呉 岩国

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 アメリカの捕鯨船にとって、重要な寄港地としてハワイは認知され、さらに鯨を追い求めた捕鯨船がたどり着いたのが日本だったのだ。
 ご存知のように日本はその時代鎖国政策を取っていたが、その後のペリー艦隊の来航により開国、近代化の道を突き進むようになった。ひと足先にアメリカの洗礼を受けていたのがハワイだったのである。
 ハワイの人々は、過剰な労働を嫌い、その日食べるものがあれば、十分であるという生活様式で、貯蓄という概念はなかった。数百年にわたって営んできたハワイ人の伝統的な生活様式は、アメリカ人の宣教師たちによって、真っ先に否定された。“文明開化”が推し進められたのだった。
 その時代ハワイを統治していたのは、カメハメハ二世だったが、王朝の中にも伝統を守る側と西洋化を支持するグループが存在した。アメリカ側に付いたのが、カメハメハ一世の妻だったカアフマヌで、自らキリスト教に改宗し、実権を握ろうとしたのだった。
 アメリカとの出会いによって、ハワイは大きく変貌し、西洋の文物ばかりではなく、梅毒や麻疹(はしか)といった病気ももたらされ、もともと暮らしていたハワイ人は、西洋人来島以前の十三万人から十九世紀末には八万人に減少したという。
 アメリカ人がハワイの産物で、目をつけたのは、白檀だけではなかった。重要視したのは日本人の移民たちも関わることになるサトウキビだった。
 一八五〇年にアメリカの資本家に土地私有が認められると、もともとは現地人の日常食にすぎなかったサトウキビは、資本主義経済に組み込まれていき大規模なサトウキビ農場が次々と作られた。
 ハワイのサトウキビ産業が大きく飛躍するきっかけとなったのは、戦争だった。
 一八六一年にアメリカではじまった南北戦争により、主要なサトウキビの産地だった南部から北部へサトウキビが送られなくなり、代わりの生産地として白羽の矢が立ったのが、ハワイだったのだ。
 ハワイにおいて一八三七年には二トンだった生産量は、百年後の一九三〇年には百万トンに達した。農園を所持した白人は巨万の富を手に入れ、仕事を求めて多くの移民が流入したのだった。
 ハワイに移民として最初にやって来たのは、中国人だった。農園労働者の八割を中国人移民が占めるようになったが、中国人たちは五年の契約期間を終えると、農園を去り、自分で商売をはじめるなど、次第に白人層の商売敵となっていった。それにより一八八二年に中国人の移民を禁止する中国人排斥法が制定されると、新たな中国人移民はハワイに入ることができなくなった。排斥された中国人の後釜に座ったのが、日本人移民だった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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