よみもの・連載

軍都と色街

第九章 呉 岩国

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 私はかつて、多くのからゆきさんを生んだ、熊本県の天草地方を歩いたことがあったが、彼(か)の地では帰国したからゆきさんが、独り身のまま暮らしていたという話を何度か聞いた。実際にひとりのからゆきさんが暮らしていたという廃屋も訪ねたことがあった。そして、彼女たちの墓が、異郷に多く残されているということは、日本に帰れば心地よく暮らす居場所がないということを意味している。
「このあたりは、海外へ出稼ぎに行く人も多かったんですか?」
「たくさんいましたよ。うちの親族もハワイに行っていますよ。それこそ南洋にも行ったという話もいっぱいあります。あなたの言ったからゆきさんのことも知っています。この辺の人は働き者が多かったから、成功する機会を求めて海外に行くことは厭(いと)わなかったんだと思います。それとご覧の通り、山も多くて田畑も少ないですから、貧しかったというのもその理由です」
 ちなみに南洋とは、グアムやサイパン、パラオなどのミクロネシアの島々のことを言うが、戦前には多くの日本人がいたことでも有名だ。特に日本人が多かったのは、この連載でも取り上げたサイパン島で、最盛期は三万人の日本人がいた。
 そして、心に引っかかったのはハワイという地名だった。現在の日本人にとって、観光地というイメージしかないハワイは、かつて日本人移民が海を渡り、成功を夢見た島でもあったのだ。男性と話をしていて、山口県に多くのハワイ移民を送り込んだ一つの島のことが思い浮かんだ。周防大島(すおうおおしま)である。
 貴重な話をしてくれた男性にお礼を言ってから、私は地区の墓地へと向かった。もしかしたらトナの墓があるかもしれないと思ったのだ。墓地は水田を抜けた先の山裾にあった。集落の民家は少しでも日差しを得ようと、南に向いた斜面に密集しているが、墓地のある北向きの斜面には民家はなかった。
 墓石を見て行くと、多くがトナと同じ相川姓だった。相川姓が多いのは、先ほどの男性によれば、明治時代になって平民も姓を名乗るようになった際、相川姓の地主から姓をもらい名乗った小作の人々が多かったからだという。 
 すべての墓を見てまわったが、墓碑にトナの名前を見つけることはできなかった。風雨で墓碑が削れた墓もいくつか目にしたので、その中にもしかしたらトナの墓があったのかもしれない。
 彼女の記事が書かれた明治という時代は遠く昔話のような感覚すら持っていたが、トナを知る人と出会い、いきなり現実のものとして目の前に迫ってきた。それにより、歴史とは単なる過去のものではなく、今も生きていて、間違いなく今の世の中にも影響を与え続けているということを感じたのだった。まず、私たちは生まれる場所を選ぶことはできない。すでに生を受ける時点で、一族の歴史という呪縛からは逃れることができない。そうした人々の因縁の積み重ねで、この国は今動いている。トナの故郷を訪ね、私はますます歴史への興味を深めたのだった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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