よみもの・連載

軍都と色街

第九章 呉 岩国

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 江戸時代風待ちの港として栄えた広島県の大崎下島の御手洗。日本には三重県の渡鹿野島(わたかのじま)など、風待ちの島が各地にあったわけだが、御手洗の規模は大きく、中国地方では群を抜いて栄えていたという。
 それを今日に伝えているのは、江戸時代後期の文政(ぶんせい)年間(一八一八〜一八三〇)に完成した石積みの港である。千砂子波止(ちさごはと)と呼ばれる堤防が、当時の姿を留めている。
 その堤防の付け根には、港完成の翌年一八三〇(文政三十)年に広島藩の御用商人鴻池善右衛門の寄付によって建立された住吉神社がある。社殿は大阪の住吉大社の十分の一の大きさで作られている。
 この場所に住吉神社が建立されたというのは、広島藩、商人にとっても重要な港であったことの証しだ。
 住吉神社は、各地の港に建立された、航海の安全を護る神社である。本社である大阪の住吉大社の周辺はかつて住吉津と呼ばれる港で、古くは遣唐使船もそこから出航した。この連載でも触れたが住吉津は万葉の時代、色街でもあった。港と色街の縁は深い。
 住吉神社は船乗りからだけではなく、港に暮らす遊女たちからも信仰を集めた。
 御手洗の住吉神社を歩いてみると、遊女が寄進した狛犬(こまいぬ)が残っていた。土台に若胡子屋(わかえびすや)の亀女と刻まれていた。これまで遊女が寄進した玉垣は見たことがあったが、狛犬を見たのは初めてだった。
 果たして、亀女がどのような人生を歩んだのか定かではないが、繁栄した色街の姿を今日に伝えているのだった。

 商船が寄港した江戸時代の港には、必ずといっていいほど色街が存在したわけだが、御手洗の場合は江戸時代に茶屋と呼ばれた遊女屋四軒が広島藩から公認されたことが、色街のはじまりだった。
 狛犬を寄進した亀女が働いていた若胡子屋はそのうちの一軒だった。『瀬戸内「御手洗」の町並み』(呉市豊町観光協会)によれば、四軒のうちで一番規模が大きかったのが若胡子屋で全盛期には百人の遊女を抱えていたという。
 若胡子屋の祖は権左衛門という者で、もともとは広島の中の棚で魚屋をやっていたが、その後山口県の上関に移り、麺類を売っていた。享保(きょうほ)の頃になって、遊女を連れて御手洗に通ってきては、船後家屋をやりはじめたという。商売が軌道に乗ると、陸に上がって小屋を借りた。さらに稼ぐようになると正式に御手洗の町人となり若胡子屋を開いたのだった。
 若胡子屋の権左衛門は幾度か商売を替え、最後に茶屋で成功を収めたのだった。ちなみに船後家屋とは、停泊している船を回って、船乗りの身の回りの世話から夜は枕をともにする女を斡旋(あっせん)する商売のことで、御手洗ではそうした女性のことを「おちょろ」と呼び、おちょろ船の語源となった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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