よみもの・連載

軍都と色街

第九章 呉 岩国

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 この作文が書かれてから、七十年以上の時が経過しているが、アメリカ的な風景が消えた土地が多いとはいえ、アメリカの植民地という状況は、日本政府のアメリカへの対応を見る限り、ますます強まっているのではないかと思えてくる。

『基地の子』には、他にも二作、呉市の宮原中学校の生徒が書いた作文が収録されていて、パンパンと米兵が暮らしていた家で、喧嘩が絶えなかったことや、パンパンと米兵は心と心の結びつきではなく、物質的なもので結ばれているにすぎない関係だといったことが書かれていた。中学生たちが、パンパンの姿に反発を覚えるのは、当然の感覚だっただろう。
 パンパンは、貧困のために自分の意思に反して体を売った女性も多かったに違いないが、今よりもさらに封建的な男社会であった戦前、戦中の日本から解き放たれ、自分の欲望に忠実で自由に生きる女性という一面もあったのではないかと思っている。彼女たちは、モノクロームの世界だった戦後の焼け野原に咲いた艶やかな花のようにも見えるのだ。
 終戦直後から米軍基地周辺を中心に売春事情をルポした貴重な記録である神崎清の『売春』(徳間書店)にも、呉に関する記事が収録されている。
 その中に興味深い記述があった。私が特にひかれたのは、呉におけるパンパンの歴史についてだった。
 それによると、呉のパンパンたちは桟橋で、駐留軍を待つだけではなく、ボートに乗って軍艦を回り体を売ったという。呉に連合国の軍艦が入港したのは、一九四五(昭和二十)年九月のことで、呉の娼婦たちは、兵士たちの上陸を待たず、自ら船で軍艦に押し寄せたという。女たちが船で軍艦に向かったのは、かつて瀬戸内海の御手洗(みたらい)など、風待ちの港を中心に、寄港する船を回って体を開いた、おちょろ舟に乗った娼婦たちの伝統があったからだという。
 そもそも、なんで軍艦に船で乗りつける娼婦たちが、呉にいたのだろうか。呉市大崎下島の御手洗でそうした売春が行われたということは書いてあるが、彼女たちがどこから来たかについて『売春』には記述がない。
 これはあくまでも私の想像になるが、敗戦直後、内務省が全国に駐留軍相手の慰安施設をつくるように指示を出したことは、すでに書いた。当然ながらここ呉にもその一報が届いたが、朝日遊廓は空襲により全焼していて、娼婦の姿はなかった。そこで、県警は県内の業者に声をかけ、空襲の被害のなかった御手洗の業者が呉に呼ばれたのではないだろうか。
 日本の伝統的な売春を受け継いできた娼婦と、西洋の兵士が、歴史的な邂逅(かいこう)を果たしたのが呉の地であったのではないか。
 以前から、御手洗には足を運びたいと思っていたこともあり、呉に業者が呼ばれたのかどうかも含めて、確認するため向かってみることにした。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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