よみもの・連載

軍都と色街

第九章 呉 岩国

八木澤高明Takaaki Yagisawa

歴史を知る人物との出会い
 若胡子屋を見学したあと、再び港の周辺を歩いた。瀬戸内海に面した住吉町の一角は、船が多く出入りした時代、ひと晩中、灯(ひ)の消えることがないと言われるほど栄えた場所で、少しでも色街の記憶がある人を見つけたいと思ったのだった。そして、戦後すぐに呉に行った業者がいたのかを確認したかった。
 ぶらぶらと、港の周りを歩いていると、男性が自転車を押して、一軒の家の門から出てくるのが見えた。私はすかさず男性に近づき、声をかけてみた。
「すいません。御手洗の歴史を調べているものですが、遊廓のことなども調べているんです」
 そう言うと、男性は自転車を押す手を止めて話してくれた。
「昔はこのあたりは、花街一色でしたよ」
「今じゃ、そんな雰囲気は感じられないですが?」
「そうですよね。昭和三十年代までは、船が月に五十隻から百隻はこの港に入ったんです。それだから船乗りの人が遊んだもんです。もともとは江戸時代に港の周りを埋め立てて町ができているんです。北前船で大坂や京都と繋がっていたもんですから、家も向こうにまねて作って、自然と言葉も似るようになったんです。私が子どもの頃は、お前だとか、汚い言葉を使うと怒られたんですよ。広島弁なんてもってのほかでした。ここには遊廓が四軒ありましたが、調査に来る大学の先生が言いますよ。遊廓があったから文化が開いたんだと。今の人は遊廓をソープランドと間違えておりますが、全然違いますよ」
「遊女の教養は高かったわけですしね」
「そうですよ。ここの遊女は、商家の娘さんと一緒に教育されていたんですよ。江戸時代の全盛期には三百人以上いたらしいですからね。お歯黒事件の若胡子屋は百二十人の遊女がいて事件ばかり起こるもんだから、三桁にしたらいけないとなって九十九人しか置かなくなったら、落ち着いたようです。それだけ遊女がいたのもここ御手洗が、港として重要だったからなんです。豪商の鴻池さんが神社だけじゃなくて、港周辺の埋め立てもやっているんです。江戸時代には大坂が米の集積地でしたけど、九州や四国などからここ御手洗にも米が集められて、御手洗相場と呼ばれる市が立ったほどです」

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

Back number