よみもの・連載

軍都と色街

第九章 呉 岩国

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 周防大島から多くの移民が出たのは、地元の産業の衰退とともに、江戸時代中期以降、島の人口が四倍以上に増加したことが主な要因だった。もともと島という地理的条件で耕作地も少なかったこの地で人口が増えた理由は、江戸時代中期に栄養価が高く、肥沃でない土地でも育つサツマイモが伝来したことだった。
 周防大島をはじめとする瀬戸内にサツマイモを持ち込んだのは、愛媛県大三島の六部(ろくぶ)僧下見吉十郎(あさみきちじゅうろう)だという。下見が六部僧になって諸国を行脚した際に、薩摩では土地の農民の家に泊めてもらった。その時出されたサツマイモの旨さと、それが火山灰で形成されたシラス大地のような痩せた土地でも栽培できることを知り、無理を言って種芋を分けてもらい持ち帰ったことがきっかけだったという。
 蛇足になるが、その説には少し疑問が湧く。薩摩藩は、幕府が鎖国体制を取っていたにもかかわらず、幕府の意向を無視し琉球や中国と密貿易をしていた。それゆえに幕府の隠密を警戒し、他藩の人間の入国を厳重に管理する態勢を敷いていた。それは諸国を行脚する六部僧にも当てはまり、関所においての所持品の検査からはじまり、決まった旅人宿に泊まることと定められた。その宿であっても数日の滞在は禁止、目的の寺院に向かう他は脇道に入ることも許されず、領内を勝手に歩き回ることや、野宿や民家に泊まることなどもってのほかだった。そのような厳重な態勢下で当時は藩外に出すのを禁止されていたサツマイモを持ち出すことは難しかったのではないか。
 これはあくまでも私の推測だが、薩摩と瀬戸内の港は、御手洗の例をあげるまでもなく、海上の道で繋がっていることもあり、商品が流通する過程で持ち込まれたとするのが、自然なのではないだろうか。

 周防大島の移民たちが渡ったハワイの歴史についても触れておきたい。ハワイは観光地でもあり、アメリカ側からしてみれば太平洋を睨むために欠かせない軍都でもある。そして、色街も常に存在していた。
 ハワイの歴史を振り返ると今日に至るあゆみは、日本と同じようにアメリカとの関わり抜きには語ることはできない。
 ハワイはイギリス人のジェームズ・クックが一七七八年に来島してから、その存在が西洋人に広く認知されるきっかけとなった。アメリカ大陸から中国へ向かう船にとって、ハワイは絶好の中継地であり、ハワイに自生している白檀(びゃくだん)を買い取り中国で売ったのだった。白檀は香木と呼ばれ仏像などに利用された。ハワイの人々もこぞって白檀を伐採し、西洋人と交易をするようになり、瞬く間に伐(と)り尽くされた。十九世紀になると、やって来たのがアメリカの捕鯨船だった。ヨーロッパやアメリカでは鯨は食用ではないが、日常生活に欠かせないものだった。鯨油はランプに使われ、骨は歯ブラシなどに利用される貴重な資源だったのだ。一八四〇年代には、年間三百隻ほどの捕鯨船が来島するようになり、ハワイには、捕鯨船の船員を相手にする酒場や売春宿もあったという。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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