よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)22

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 晴信の当惑は、充分、信方にも伝わっていた。
「お気持ちは、だいたいわかりました。されど、若の御立場を鑑みるならば、ただ話をしたいから会いたいというわけにはまいりますまい。相手のためにも、きちんと威儀を糺(ただ)した方がよいのではありませぬか」
 傅役(もりやく)としての的確な指摘だった。
「……確かに……そうかもしれぬ」
「先方としても、いきなり側室にと言われても困るでありましょうし、それなりの決心も必要かと。ならば、こういたしませぬか。あの娘は年頃にもかかわらず、きちんとした裳着(もぎ)の儀も済ましておりませぬ。本来ならば、数年前に頼重(よりしげ)殿が何らかの形で威儀を糺してやるべきでありました。されど、今となっては後見人もおらず、儀礼の執り行いさえままなりませぬ。それではあまりに憐(あわ)れではありませぬか。そこで、やはり皆が言うように、まずは禰津(ねづ)家に身元の引き受けを頼み、その上で若が後見人となり、立派な御裳着の儀礼を執り行えるようにしてやればよいのではありませぬか」
「……余が……後見人?」
 晴信は驚いたように眼を見開く。 
「はい。若は禰津家にとって主筋となりますゆえ、家臣の娘の後見に立つことは何ら不自然ではありませぬ。その後、母子ともども普通の暮らしを送り、落ち着いたところで禰津家の娘として正式に若の侍女(まかたち)として取り立ててやればよろしい。いずれにせよ、若はこれから諏訪(すわ)と新府を忙しく往来せねばなりませぬ。ならば、この諏訪においても新府と遜色(そんしょく)のない過ごし方をするために、身の回りの世話をする者が必要になりまする。ちょうど、台所や饗応の切り盛りができる侍女たちを集めねばならぬと思うておりました。まずは、その一人として、あの娘にも役目を負うてもらいまする。膳の上げ下げなどを介して時を過ごすようになれば、自然と話もできるようになるのではありませぬか。少々まどろこしいやり方になりますが、そうした設(しつら)えも必要と存じまする。いかがにござりまするか?」
 微(かす)かな笑みを浮かべ、信方が訊く。
「……果たして、あの娘が受け入れてくれるだろうか」 
「それはわかりませぬ。されど、受け入れてくれるように誠実に説得するしかありますまい。それは、われらにお任せくだされ」
「さようか……」
「ただし、すべてが整ったあと、あの娘の心を開かせられるかどうかは、若次第にござりまする。これはあくまでも、それがしの私見にござりますが、どうも、あの娘が若を父親の仇(かたき)と見ているようには思えませぬ。何か、もっと他のことに心を砕き、あのように淋しげな面持ちになっているのではありますまいか」
「なにゆえ、さように思うのか」
「長年培ってきた勘、としか言いようがござりませぬ。この身には計りかねますが、若が真剣に向き合えば、必ずや、まことの答えに辿(たど)り着けるのではありませぬか」
「……だと、よいのだが」
「今から気に病んでも仕方がありますまい。こうなったからには、鷹揚(おうよう)に構えるしかありませぬ」
「……そうかもしれぬな」
「では、景気づけに一献いただきとうござりまする」
「ああ、わかった」
 少し困ったような笑顔で、晴信が頷(うなず)く。
「支度を申し付けてまいりまする」
 信方は酒盛りの支度に立ち上がった。
 この夜、二人は久方ぶりに差しで痛飲した。 

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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