「ならば、こたびはその願いが叶(かな)う千載一遇の機会が訪れたと」 「そうとも言えましょう。そもそも臨済宗は足利家の手厚い庇護を受けて隆興しましたので、武門とは切っても切れぬ縁がござりまする。官寺として武家のご子息を受け入れることは当然として、漢書にも通じておりますゆえ、拙僧のように武経七書(ぶけいしちしょ)の講話などもいたしますし、お武家の遣いを務める僧侶もおりまする。大まかに申せば、山門には二種類の僧がおりまして、ひとつは拙僧の如く禅寺を生涯の住処(すみか)とする者。もうひとつが、雪斎殿の如く武門から山門へ入り、修学を極めた後に武門へとお戻りになる方々にござりまする。兵法の理合については山門の内にて余人よりも深く学ぶことができますゆえ、武門に戻って実践を積み重ねれば、並の者より遥かに優れた能力を発揮することも多々ありまする。雪斎殿はそうした才の煌(きら)めきをお持ちの方であり、その指導を受けた義元殿も同様の智慧(ちえ)を体得なされたと思いまする」 「実際、内訌(ないこう)にも打ち勝たれたのだから、御老師の仰る通りなのでありましょう。されど、なにゆえ、二人がこれまで激しく対立してきた当家と和睦する道を選んだのか、その理由を伺いたい。なにか裏があるのではありませぬか?」 信方は真っ直ぐに岐秀禅師を見据える。 「それは雪斎殿が今川家の行く末を理で考え抜いた結論だと存じまする」 「理で考えたとて、これまでの遺恨は残りまする」 「確かに、両家には遺恨がありまする。されど、今川家の代替わりは、それを払拭する良い機会となるのではありませぬか。義元殿には、武田家に恨み辛(つら)みはないはず」 「確かにそうでありましょう。されど、理で割り切れぬほどの血を双方が流してきました」 「その遺恨の轍(わだち)を乗り越えねば、いつまでも両家に流血の惨状が続きまする。互いに理で納得し、遺恨を忘れるに値する利益(りやく)が得られるのならば、和睦が最も有効な手段となるのではありませぬか」 「なるほど。ならば、その雪斎殿とやらが唱える理をお聞かせ願えませぬか」 「少々、長くなるやもしれませぬがよろしかろうか」 「構いませぬ。存分にお聞かせ願いたい」 「わかりました。では、まず結論から申し上げまする。義元殿と雪斎殿の眼は、すでに西にしか向いておりませぬ。肥沃な三河、尾張、さらに伊勢、美濃、近江を制覇すれば、自ずと京への道が開けましょう。それ以外の戦いは今川家にとって百害あって一利もなし。さように考えておられまする。ただし、西へ進むには、己の背と横腹を万全にしなければならず、北の武田家と和を結ぶことが必須となりまする。甲斐には猛虎の如き武田の御屋形様がおり、この御方と宥和(ゆうわ)せねば、遠江(とおとうみ)から先へは一歩もすすめませぬ。つまり、『西を目指す今川家にとって武田家と争い続けることこそが百害あって一利もなし』という結論になりまする。さて、同じような理によって武田家のことを鑑みますれば、やはり西へ出ることが大きな利益となりまする。そこには信濃という豊かな地が広がっており、これを自領とすれば武田家の力は何倍にも大きくなりましょう。もしも、東へ出たとしても、そこには山内(やまのうち)と扇谷(おうぎがやつ)の両上杉家がおり、いま結んでいる盟約はすぐに破棄され、武蔵や上野(こうずけ)は簡単に領地とはなりますまい。それよりは西へ出て、まず諏訪(すわ)を制する方が戦いも容易であり、利益が大きいとは思いませぬか。ただし、そのためには今川家との争いを止めねばなりませぬ。つまり、理で突き詰めれば、今こそ武田家と今川家が手を結び、西へ進むことが最上の策となりまする。違いまするか?」 岐秀禅師の理路は整然としていた。 すなわち、それが太原雪斎の案じた策だということである。