連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)6 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 晴信は反動をつけて起き上がり、手早く装束を脱ぎ、褌(ふんどし)を外す。小姓から絞った手布(たのごい)でくまなく軆を拭き、肌を乾かした後、丹念に塗香(ずこう)した。
 塗香とは、数種の香木を混ぜて粉末にした香を軆に塗って穢(けが)れを除くことである。
「……では、先に休ませてもらう」
 長襦袢(ながじゅばん)を纏(まと)った晴信は大きく息吹を行う。
「ごゆるりとお休みなされませ」
 信方が控えの間から送り出す。
 綿の入った搔巻(かいまき)を羽織り、晴信は寝所へ向かった。
「晴信にござる」
 そう言いながら、静かに襖(ふすま)を引く。
 室内に入り、戸を閉めると、燭台(しょくだい)の灯りに照らされ、蒲団の脇に座った慶子の姿が見える。晴信と同じく、寒さを凌(しの)ぐために搔巻を羽織っていた。
「慶子殿、床へ入る前に、少し話を聞いてくれぬか」
「……はい」 
「上手く話せるかどうか、わからぬゆえ、思うたままを素直に伝えたいと思う。そなたと夫婦になることが決まってから色々と考えたのだが、正直、こうして会うまで、どうしていけばよいか思案がまとまらず、ただ迷うていた。されど、さきほど笛の話などしてみて、気持ちが固まった。結論から申せば、そなたとは焦らずにゆっくりと時を重ね、慣れ親しんでいくのがよいと思うた。性急に寄り添おうとせず、一緒に飯を喰い、互いのことなど語り、わかり合っていきたい。そのために、それがしは進んで時を使いたい。さすれば、そなたも甲斐の水に馴染んでくれるのではなかろうか」
 晴信の話を、慶子は真剣な面持ちで聞いている。
「正直に申せば、こうして二人きりでいることさえ恥ずかしい。情けない話だが、己がいかように振る舞えばよいか、わからなくなってしまうほどに……。されど、一緒であることに何の気詰まりもなく、逆に心地良さを感じている。矛盾しているようだが、それが偽りなき気持ちなのだ。そなたとならば、仲良くやっていけそうな予感を抱いている。だから、尚更、時が必要だと。さように申せばわかってもらえるだろうか?」
「晴信様は……」
 慶子は長い睫毛(まつげ)を伏せながら言葉を続ける。
「……正直な御方にござりまする。それに、お優しい」
「優しい? それがしが?」
「はい。言葉の端々に、優しいお気遣いを感じまする」
「そうかな……」
 晴信は照れたように頭を搔く。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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