その気迫に押され、海野棟綱は小さく頷(うなず)いた。 「砥石城に入っているのは、誰であったか?」 「禰津(ねつ)の叔父上と矢沢(やざわ)殿にござりまする」 「そなたと幸隆の策では、砥石城に籠城し、上杉憲政殿の援軍を待つということか?」 棟綱の問いに、嫡男が即答する。 「はい、さようにござりまする。すでに上野の平井(ひらい)城と箕輪(みのわ)城の長野(ながの)業正(なりまさ)殿へ早馬を飛ばしておりまする。砥石城の守りの堅さならば、敵も簡単に攻め寄せることはできず、援軍の到着まで持ち堪えることができるはず。ここを出て、神川を渡りましたならば、それがしが対岸の武田勢を見張りますゆえ、父上は急ぎ砥石城へお入りくださりませ。嚮導(きょうどう)と護衛は幸隆殿にお任せいたしまする」 「そなたの手勢だけで武田と一戦交えると申すか?」 「いいえ、さほど大それたことではなく、もしも武田勢が犠牲を顧みずに渡河しようとしたならば、岸から矢を浴びせかけてやりまする。危ういと見たならば、すぐに砥石城へ撤退しますゆえ、どうかご心配なく」 「……うむ、そなたがそこまで申すならば、致し方あるまい。すぐに動こう」 海野棟綱も覚悟を決めたようだ。 「では、幸隆殿、父上を頼む。それがしは殿軍(しんがり)を引き受ける」 海野幸義の言葉に、真田幸隆は大きく頷く。 「わかりました。どうか、お気をつけて。くれぐれもご無理はなさらぬように」 「ああ。では、後ほど砥石城で」 こうして慌ただしく総勢で撤退が開始された。 真田幸隆は先遣隊として真っ先に神川を渡り、西側から迫ってくるはずの村上勢を警戒しながら砥石城を目指す。海野幸義は神川の西岸にある信濃国分寺(しなのこくぶんじ)に陣を置き、武田勢と諏訪勢の動きに備えた。 幸隆が向かう砥石城は、国分寺表から北に二里(八`)ほど登った東太郎山(ひがしたろうやま)の尾根上に築かれ、南の上田平(うえだだいら)や北東の真田郷を一望できる位置にある。 そして、この城の最大の特徴は、追手門(おうてもん)に通ずる急坂にあった。城へ至るには、その追手道を登るしかないのだが、東太郎山の岩肌が剥き出しになっており、容易に登攀(とうはん)できる状態ではない。それがまるで砥石の表面のようであることから城名がつけられた。 滑りやすい急坂を登ってくる敵は、追手門に陣取った弓箭手(きゅうせんしゅ)からは格好の標的となる。それが砥石城が難攻不落と呼ばれる所以(ゆえん)だった。