「山門の場合ならば、師を替える、もしくは弟子が自立するという道が残されておりまする。されど、武門の親子、しかも相続に関わる話となれば、さように安易なお答えをするわけにはまいりませぬ。今は辛抱の時、武田の御屋形様にお考えを変えていただくよう、我慢強く努力を積み重ねていくしかないのではありませぬか。歯痒(はがゆ)い答えとお思いになるでしょうが、拙僧にもまだ、さような答えしか浮かんでまいりませぬ。晴信様の御元服と今川家の代替わりが、御屋形様のお考えが変わる契機となってくれればよいと思うておりまするが」 「そこまで見通した上で、御老師はこの和睦の仲介に入られたと解すればよろしいか?」 「さほど偉そうなものではありませぬ。もちろん、晴信様のためになればという思いは強く、それに加え、この甲斐国の閉塞を何とか打開できぬかという思いもありました。論語に曰(いわ)く『遠き慮(おもんぱか)りなき時は、必ず近きに憂いあり』と申し、疲弊しきった甲斐を立て直すためには深謀遠慮が必要にござりまする。今川家との和睦は、その第一歩。世俗の垢(あか)にまみれた響談(きょうだん)僧と謗(そし)られようとも、今は動くべきと判断致しました」 「御老師のお考えは、よくわかり申した。己の裡で、もやもやしていた悩みが解決いたしました」 信方は神妙な面持ちで何度も頷く。 「これで何の躊躇(ためら)いもなく、駿河との国境へ出張ることができまする。かたじけなし」 「こちらこそ、失礼な物言いをいたしましたことをお詫び申し上げまする。重ねて、晴信様にも御無礼の段をお詫びいたしまする」 岐秀禅師の言葉に、晴信は微(かす)かに首をよこに振る。 「いいえ、この身も気が晴れました」 「板垣殿、日を改め、信濃について拙僧が聞き及んだ話を、晴信様とそなたにお聞かせしとうござりまするが」 「是非にお願いしとうござりまする。されど、その前に、ひと仕事、片付けてまいりまする。お話は戻ってからということで」 「承知いたしました」 こうして岐秀禅師と信方の熾烈(しれつ)な問答は終わった。 長禅寺(ちょうぜんじ)の門を出る前に、信方が頭を下げる。 「……若、余計な話をお聞かせして申し訳ござりませぬ」 「構わぬ。気が晴れたというのは本心から出た言葉だ。やはり、付いてきてよかった」 晴信は続けて訊く。 「それよりも、まことに、この身が万沢(まんざわ)へ出向かなくてもよいのであろうか?」 「こたびのことは、板垣めにお任せくださりませ。さっさと片付けてまいりますゆえ、その間、御老師の講話を受けておられた方がよいと思いまする。あの御方は心強い真の味方にござりますれば」 「そうであるな」 晴信も傅役(もりやく)と同じ思いを嚙みしめていた。