「……誉めるどころか、『差し出がましい真似をしおって!』と一喝されるのが関の山ではありませぬか。勝手に兵を動かしたという罪で処罰されようものならば、眼も当てられられませぬ。力を貸してくれた者たちに面目が立たぬどころか、咎人(とがにん)にしてしまうという負い目を背負うことになりまする。さりとて、手をこまぬいておれば甲斐一国が滅びかねず、そこまで考えて、ほとほと嫌になりました」 「……何がであるか」 「こたびの一件すべてにござりまする。動くも地獄、動かぬも地獄。半端な覚悟で関わるべきではありませぬ。それをわかっていながら、何のために、かように損な役割を背負わねばならぬのか、と」 「それは……それは、甲斐一国と武田一統の行末を守るためではないか!」 「さようにござりまする。突き詰めて考えれば、そのためでしかあり得ませぬ。その答えに辿(たど)り着き、それがしは余計なことを考えるのは止め、もう甲斐一国と武田一統の行末しか考えるのを止めました。その結論として、飯田虎春の率いる土屋一派を潰し、青木殿の一派を従わせるしかないという選択に至りましてござりまする」 「板垣(いたがき)……」 「若はどう思われまするか。ただ甲斐一国と武田一統の将来のために覚悟を決めることができましょうや?」 信方の問いに、晴信はきつく奥歯を嚙(か)みしめた。 「……守るべきものが……失うものよりも尊いと思えるならば、覚悟は決められる。この身にとって甲斐一国と武田一統の将来以上に大事なものはない。できれば、家臣を選別するようなことはしたくなかった。されど、そなたの話を聞き、さような思いも何の責任も負わぬ者の空情(そらなさ)けだとわかった。それゆえ、今は何も守れぬ温情よりも、失いたくないものを救うための無情が必要なのだと思う」 顔を上げ、晴信はきっぱりと言った。 ――この御覚悟は、本物であろう。ならば、もうひとつ。……もうひとつだけ、難関を越えていただかねばならぬ。 信方も覚悟を決めて口を開く。 「あと、もうひとつ。どうしても若に聞いていただかねばならぬことがありまする」 「何であるか」 「実は……」 気力を振り絞り、信方は今川(いまがわ)家から伝えられた廃嫡の話をし始めた。 二人にとって息が詰まりそうになるほど重苦しい時が過ぎてゆく。 そして、話を聞き終えた晴信の顔を、信方は一生忘れられないだろうと思った。 笑顔とも、哭(な)き顔とも見えるような、その面相に張りついていたのは、まるで空の境地へと導かれた菩薩のような静かな悲しみだった。 息苦しい沈黙の中で、信方の胸の裡(うち)に耐えがたい痛みが走る。まるで、肋骨(あばらぼね)が縮み、心の臓を鷲摑(わしづか)みにしているような痛みだった。 少し俯(うつむ)き加減となった晴信が口を開く。 「……なあ、板垣。嫌なことを訊いてもよいか?」 「嫌なこと……。構いませぬが」 「初陣の時にも聞いたと思うが、父上はなにゆえ、そこまでこの身を嫌われるのであろうか?」 その問いに、信方は傅役としてのすべてを賭して答えなければならない。 そして、今こそ晴信を救わなければならなかった。