第三章 出師挫折(すいしざせつ)23
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「……か、勘違いをしまして、まことに申し訳ござりませぬ」
麻亜は両手をついて頭を下げる。
「そなたのせいではあるまい。面を上げてくれぬか」
酔いはすっかり醒(さ)め、緊張や昂揚(こうよう)もすでに収まっていた。
かといって失望したわけではなく、やっと本来の己を取り戻したという思いだった。
――まったく命懸けでなければ、女人とは話もできぬのか……。
思わず苦笑いがこぼれる。
――さりとて、このまま二人きりでいても、また気まずい思いをするだけかもしれぬな。
そう思った刹那、室外に微かな摺足(すりあし)の音が響く。
「……御屋形(おやかた)様」
戸の向こうから、申し訳なさそうな声が聞こえてくる。
「信房(のぶふさ)か。いかがいたした?」
晴信には教来石(きょうらいし)信房の跫音(あしおと)だとわかっていた。
「……懼(おそ)れながら、火急にお伝えせねばならぬことがありまして」
「構わぬ。戸を開けて中へ入るがよい」
「では、御言葉に甘えまして、ここにて」
信房は音もなく戸を引き、襖の陰から言葉を続ける。
「実は先ほど、駿府(すんぷ)より今川(いまがわ)家の早馬が諏訪(すわ)へ着きまして、河東(かとう)にて北条(ほうじょう)家と戦(いくさ)を構えたとのことにござりまする。つきましては、今川義元(よしもと)殿が御屋形様と直にお会いしたいと願われている旨、言付かっておりまする」
「義元殿が直々に?……まことか」
「はい。できれば、一刻でも早く御屋形様にお伝え願えないか、と今川の使者が申し入れてまいりました」
「さようか。ならば、まことに急ぎの話だな。わかった、すぐに新府へ戻るゆえ、そなたは馬の用意をしておいてくれ」
「承知いたしました」
教来石信房は一礼してから、素早く襖を閉め、そこから立ち去った。
「慌ただしくてすまぬが、どうやら急用ができてしまったようだ。甲斐へ戻り、その足で戦に出ねばならぬ」
晴信は困ったように笑いながら告げる。
「……どうか、お気をつけて、お出かけくださりませ」
麻亜が再び両手をついて頭を下げた。
「ひとつだけ言っておきたいことがある。そなたの瞳は紫水晶の如く綺麗ゆえ、それが曇ってしまわぬように、あまり哀しいことばかりを考えるな。もしも、余の側に仕えるのが嫌ならば、断っても構わぬ。これは本心だ」
「……はい」
「では、行ってくる」
晴信は大股で歩き出し、振り向かずに室を退出した。
その後姿を、麻亜は身動(みじろ)ぎもせずに見つめる。
透き通った双眸(そうぼう)には、これまでとは違った光が宿っていた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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