連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志16 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「あ、若。少しお待ちくださりませ」
 信方は小走りで門内へ入り、何かを持って戻ってきた。
「寺から拝借して参りました。これが役に立ちまする」
 右手に桶を摑んでいた。
 四町(約四百三十㍍)ほど離れた涌湯へ行くと、 濛々(もうもう)と白い湯気が上がっている。
「ここか……」
 晴信は驚きの表情で涌湯を見る。
 天然の岩に囲まれた小さな湯だまりだった。
「……どうすればよい、板垣?」
「ここで衣を脱ぎ、湯に浸かるだけにござりまする」
 信方はさっさと素襖(すおう)を脱ぎ、犢鼻褌(たふさぎ)まで外す。
「……犢鼻褌までもか」
 晴信は戸惑いながらも真似をする。丸裸になってから、恐る恐る湯に爪先を入れた。 
「あちっ!」
 あまりの熱さに、晴信は飛び退(しさ)る。
「ははは、若、涌湯の入り方がわかっておりませぬな」
 信方が高笑いする。
「まずは、軆を冷やすために、しばらくこのままで待ちまする」
 腰に両手を当て、仁王立ちになった。
「震えがくるほど冷えましたならば、これで湯を打ちまする」
 信方は寺から持ってきた桶で湯を汲み、何度も軆に浴びせかけた。そして、熱さに慣れた頃、両足を湯に入れる。
「最初の熱さは我慢あるのみ。くぅ〜」
 それを見た晴信は、傅役(もりやく)の真似をして同じ要領で涌湯に足を入れる。
「うぅ、熱い」
 肌に痛みを感じるほど、天然の涌湯は熱かった。 
「ははっ、我慢、我慢」
 信方は両手で軆に湯を掛けながら笑う。
 たっぷりと時をかけてから、二人は首まで湯に浸かった。
「ああ、慣れると、凄く良い湯だ」
 晴信は気持ちよさそうに両手両足を伸ばす。
「その通りにござりまする」
「ここの湯を産湯(うぶゆ)に使うたと?」
「さようにござりまする。湯が冷めぬように、何度もここと積翠寺を往復いたしました。夜更け過ぎに御方様の陣痛が始まり、若がお生まれになった頃には、夜が明けそうになっておりました」
「さようであったか」
 晴信は感慨深げに呟く。
 ――あれから十五年も経ったというのか……。
 信方も別の感慨に耽(ふけ)っていた。



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〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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