連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志16 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「若、この涌湯に誘っていただいたということは、鬱屈とした悩みのいくつかが解決したと思うてもよろしいので?」
「ああ、そういえば、さような話をしたな……」
 晴信は湯に浸した白布を頭に乗せる。
「……さて、どうであろうか。悩みが解決したというよりも、初陣が終わって何かひとつ、吹っ切れたということなのかもしれぬ」
「何かひとつ、吹っ切れた……。それは、何でありましょうか」
「己でも、まだあまり上手く言葉にできぬのだ。されど、確実に何かかが吹っ切れ、その分だけ心が軽くなっている。それだけは確かなのだ。だから、ここへ来てみたいと思うた」
「なるほど……。この板垣めにもわかるよう、その何かを身近な事柄や物にたとえていただけませぬか」
「たとえか……」
 晴信はしばし思案する。
「たとえば、物心ついたばかりの童は、物(もの)の怪(け)や化物の話を聞き、その見えない相手に怯(おび)えるではないか。それと同じように、理由も定かではないのに、ただ怯えている己がいた。何を怖れているかもわからぬのに、心の底に臆病の虫がへばりついているような……ずっと、そんな感じであった。おそらく、父上や重臣たちの眼に臆し、それで卑屈になっていたような気がする。その萎縮が言葉にできぬ恐怖となって心奥に巣くっていたのやもしれぬ」
「何となく、わかりまする。初陣を飾り、それが消え去りましたか?」
「消え去ったのでは、ないと思う。おかしな言い方かもしれぬが、訳もなくという、その理由がひとつ消えたのではないかと思う。訳もなく何かを怖れていても仕方がないことに気づいたというか、真に怖れるべきことは他にいくらでもあると気づいた。それが初陣の場に立ち、戦をひとつ凌(しの)ぐことでわかったような気がする」
「ほう、なるほど。では、その『真に怖れるべきこと』とは?」
「それは……。それは、たとえば将として、人の命や心を預かるということであろうか。殿軍の役目を預かり、たくさんの家臣の命や心を預からねばならぬと思うた刹那、心底から震えが湧いてきた。真に怖れるべきことは、そのようなことだと。そして、逆に考えてみた。この身の如き未熟な将に命を預けねばならぬ兵たちは、どのような気持ちでいるのだろうかと。様々な想いはあるにせよ、おそらくその大半は未熟な将に命を預けねばならぬという恐れであろうと。されど、殿軍に残ってくれた将兵たちは、そのような素振りを微塵(みじん)も見せなかった。その時、思うたのだ。この身には父上や重臣たちの眼に意味もなく臆している場合ではなく、将兵たちが命を預けてくれる重さを怖れるべきだ、と。兵たちがひた隠しにしてくれる怖れを真っ向から引き受け、己の責を果たさねばならぬのだと気づいた。同時に、己がこれまで、どれほど甘え、どれほど生温い悩みに浸っていたのかを思い知らされた。真に怖れるべきことは、これからもっと増えていくはずだし、卑屈になって身を縮めている暇などないと悟った。そう思うてから、少しだけ心が軽くなったのだ」
 晴信は真剣な眼差しで語りきった。
 ――すべての責を負う。さように言い切られたのは、決して虚勢ではなく、陣中にいる間も熟考を重ねておられた若の結論であったのだ。
 信方にはその心の動きが手に取るが如く伝わった。



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〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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