数々の負の要因を抱えながら年が変わり、天文(てんぶん)十年(一五四一)の春を迎える。次郎は元服の儀を執り行い、武田信繁(のぶしげ)と名を改めた。 そして、水禍の爪痕も消えていない新府で出陣の儀が行われ、御旗楯無(みはたたてなし)への誓いが立てられた。 出立までのわずかな合間に、甘利虎泰が信方(のぶかた)の処(ところ)にやって来る。 「駿河守殿、少しお話ししたいのだが、よろしかろうか」 「甘利……」 「出陣の前に、どうしても御身(おんみ)とお会いしておかねばと思いまして」 「いかがいたした」 「こたびは、佐久での前捌き、まことに有り難うござりました。加えて、まことに申し訳ござりませぬ」 甘利虎泰が深々と頭を下げる。 「……なにゆえ、そなたが謝るのか?」 信方は戸惑いながら訊く。 「本来ならば、こたびの戦は駿河守殿の武功の上に成り立っているもの。それを本戦とも言うべき時に、留守居役とは釈然といたしませぬ。御屋形様にもそれとなく進言いたしましたが、聞き入れていただけませなんだ。ひとえに、それがしの力不足にござり、そのことに対するお詫びにござりまする。加えて、信繁様の傅役を仰せつかってから、駿河守殿に不義理をしていたように思いまする。本当は昔のように酒でも吞みたいと思うておりましたが、何となく、この身がぎくしゃくしてしまいまして……」 「それならば、この身も同様であろう。そなたとの不和などあろうはずもないのに、家中の雰囲気に流されてしまった」 「実は、信繁様もあらぬ風聞を気になされておりまする。それに駿河守殿が佐久へ出張っておられる間に、御屋形(おやかた)様のお呼びで参上した晴信様と信繁様がばったりと顔を合わされました。その時、晴信様が会話を避けるような素振りをなされたことに、信繁様がいたく心をいためられたようで、しきりに御自分のせいではないかと悩んでおられました」 甘利虎泰はその時のことを詳しく話す。 信方は眉をひそめながら話を聞いていた。 「……さようなことがあったのか」 「信繁様は未(いま)だに深く兄上をご尊敬なされており、幼少の頃のように水入らずで時を過ごしたいと思われておりまする。されど、御屋形様から晴信様の御初陣の話など聞いてはならぬと釘を刺され、悲しそうになされておりました。それがしから見ても、なにゆえ御屋形様が御二方を引き離そうとなさるのか、皆目わかりませぬ」 「そなたも家中でまことしやかに囁(ささや)かれている根も葉もない噂(うわさ)を知らぬわけではあるまい」 渋い表情で、信方が呟(つぶや)く。