「信繁様の御初陣を境に、ますます家中の覇権争いは激しくなりましょう。良からぬ企みを巡らす者が出てくるやもしれぬゆえ、晴信様ともども、お気をつけなされませ」 「ああ、わかった」 「こたびの戦が終わりましたら、真っ先に屋敷へお邪魔しますゆえ、一献お願いいたしまする」 「そういえば、飯富(おぶ)もそなたと呑み較べしたいと申しておったな」 「ほう、それは望むところ。では、昔のように勝負いたしましょう。盃などと間怠(まだる)いことをいわず、あれで」 甘利虎泰は徳利を喇叭(らっぱ)呑みする仕草を見せてから笑った。 「ああ、よかろう」 信方も笑顔を見せた。 この会話があった翌日、武田勢は泥土の中を海野平に向けて出立した。 晴信と信方はそれを黙って見送る。 「若、実はお話がありまする」 「何であろうか」 「昨日、甘利がこの身を訪ねて参りまして、信繁様の御伝言を残していきました」 信方は甘利虎泰との会話を残さず伝えた。 その話を聞き終え、晴信は溜息を漏らすように呟く。 「次郎がさようなことを……」 それから思い直すように顔を上げる。 「いや、もはや次郎ではなかったな。信繁がそう申していたか。この前のことは、こちらから謝らねばならぬと思うていたのだ。あ奴とは、色々と話したいこともある」 「御初陣から戻られましたら、労(ねぎら)いの御言葉をかけにまいりましょう。それに、すぐ轡(くつわ)を並べる機会も訪れまする」 「そうだな。されど、父上と信繁の留守中も、のんびりしているわけにはまいらぬ。深く考え、やらねばならぬことはいくらでもある」 「と、申されますと?」 「見てみよ、板垣(いたがき)。この悲惨な有様を。少し強い雨が降っただけで、新府は泥の海だ。これではいつまでたっても不作や飢饉はなくならぬ。疫病(えきびょう)の元凶になってしまう。釜無川と御勅使川の氾濫を抑えるような治水をしなくてはならぬ。誰か河川の治水に詳しい者はおらぬだろうか」 微(かす)かに眉をひそめながら、晴信が言う。 「まずは岐秀(ぎしゅう)禅師にご相談なさってはいかがにござりましょう」 「そうだな。これからは理(ことわり)を学ぶだけでなく、実践に繋がる智慧(ちえ)も身に付けねばならぬ」 晴信は眼を凝らし、荒れ果てた新府の地を見渡す。 ――若は強くなられた。かような仕打ちを受けても、もう下を向くことはなく、常に先を見据えておられる。すなわち武田家の行末をだ。 信方も無言で頷(うなず)く。 そして、天文十年(一五四一)五月十三日、武田家と村上家の連合軍が滋野領に侵攻し、ついに海野平で合戦が始まった。